瞬の深夜帰宅が暗黙の了解になりかけていたある日の昼下がり。
城戸邸に思いがけない人物からの電話があった。

メイドたちは、他の仕事に手をとられているらしい。
いつまでもベルの鳴りやまない電話の受話器をとったのは、氷河だった。

「品川と言いますが、瞬くんはご在宅ですか」
それが、あの老紳士の声だと、氷河にはすぐにわかった。
受話器の向こうから聞こえてくる老紳士の声は、どこか緊張して焦っているように感じられた。

瞬は在宅していたのだが、氷河は彼に、瞬は外出中だと告げた。
この程度のささやかな嫌がらせは許されてしかるべきだと、氷河は、自分の中で勝手に決めつけていた。

氷河の返答に、電話の主が、数秒間の沈黙を作る。
それから彼は、意識して抑制しているのが如実にわかる声で、
「では、ご帰宅されてからで結構ですので、もしよろしかったら、東都大学病院までいらしていただけないかと、瞬くんにお伝えください」
と言った。
「妻が先程特別室に移りました、と」

(なに……?)
氷河が何事かを答える前に、電話は切れていた。

切れた電話の受話器を元の場所に戻してから、氷河は品川と名乗った男の言葉の意味を考えてみたのである。
彼の細君が特別室に移る──というのはどういうことなのか、を。
手術を受けるために病室を移動したというのなら、あらかじめわかっていることだろうし、急いで連絡を入れてくるようなこともないだろう。

そこまで考えてから、氷河はさっと青ざめたのである。
それは、彼の細君の死期が近いということなのではないかということに思い至って。
これは、のんきに焼きもちなど焼いている場合ではなさそうだった。

氷河の推察は、的を射たものだったらしい。
品川氏からの伝言を伝えると、瞬は氷河以上に青ざめて、自室を飛び出した。

「沙織さんっ!」
瞬が向かったのは沙織の部屋だった。
瞬の顔色を見ただけで事情を悟った沙織は、瞬から説明を受ける前に、インタフォンに向かって車の手配を指示した。

「ホワイトカテドラルのマダムに電話して、例のものを東都大学病院に大至急運ぶように伝えてちょうだい。大至急よ! 瞬と私は先に向かってますって、言っておいて!」
予定になかった主人の突然の外出に慌てて玄関先に出てきたメイドに、怒鳴るようにそう命じると、沙織は瞬と共に黒塗りの車の後部座席に乗り込んだ。

氷河が品川氏の電話を切ってから、瞬と沙織を乗せた車が城戸邸の門を出るまでに要した時間は僅かに5分。
まさに電光石火の早業だった。

そして、城戸邸に残された氷河は──氷河もまた、ガレージから車を出して、瞬たちのあとを追ったのである。
詳しい事情はわからなかったが、瞬の側にいてやらなければならないような気がした。






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