氷河が飛び込んだその場所には、白い壁と白いベッドと、白い服をまとった医師と看護婦がいた。
寝台に、ひとりの女性が横たわっている。
既に人工呼吸器が外されている瀕死の人の枕元に近付いていく瞬を、花嫁を招いた男と沙織とが無言で見詰めていた。

「おば……おかあさん」
白いベッドに横たわっているのは、上品な顔立ちの──だが、ひどく痩せ細った──老婦人だった。
瞬の声を聞き取ることができたらしく、彼女はうっすらと目を開けた。
そして、その瞳を輝かせる。

「真理ちゃん……? まあ、なんて綺麗な……」
死に片手を預けている老婦人を、瞬は母と呼び、瞬に母と呼ばれた女性は、氷河の知らない名前で瞬を呼んだ。

彼女は、それからかなり長い時間、死に瀕した人間のそれとは思えないほど生気に満ちた眼差しで、彼女の“娘”を見詰めていた。
息詰まるような沈黙の時間が過ぎたあとで、彼女は再び口を開いた。

「……よかった。もう思い残すことはないわ」
「そ……そんなこと言わないでください、お……かあさん」
「今、怒鳴っていたのが真理ちゃんの旦那様?」
「あ……え?」
「並んでみせて」

彼女の言う“旦那様”が自分のことだと思っていなかった氷河は、沙織に背中を押されて、初めてそうと気付いた。
有無を言わせぬ沙織の視線に逆らえず、戸惑いつつも瞬の横に立つ。
ちらりと瞬に視線を投げると、老婦人を見詰めている瞬の瞳は、ひどく辛そうな色をたたえていた。

「まあ、金髪さんなの? そうね、金髪さんとだって仲良くしなくちゃ……仲良くしていたら、あんな悲しいことは起こらなかったのに──」
老婦人は、故意に、瞬の瞳に宿る辛い色に気付かぬ振りをしているようだった。
彼女は、瞬と氷河とを交互に見詰め、微笑を浮かべさえした。

「綺麗、本当に綺麗。あんなに小さかった真理ちゃんが……ねえ、あなた」
瀕死の女性を挟んで反対側の枕元に立つ夫に同意を求めるように、彼女は呟いた。
「この日のために生きてきたの……。そうだったんだわ。私は、この日のために、必死にあなたと生きてきたの」

死に瀕している女性の声は、やっと聞き取ることができる程度に小さく力無く、それでいて意思的だった。
品川氏が、妻の言葉に無言で頷く。

「ありがとう、あなた」
おそらくは人生の時間のほとんどを共に暮らしてきたのだろう夫に、彼女は万感の思いを込めた感謝の言葉を告げた。

それから、苦しそうに大きく息を吐いた彼女は、瞬に向かって、
「ありがとう……ちゃん」
と言った。

それが彼女の最期の言葉だった。

医師が老婦人の死亡を確認し、臨終の事実と時刻とを、低い声で遺族に告げた。






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