城戸邸の庭では、春の花が咲きかけている。 風はまだ少し冷たかった。 「あのおばあちゃんね、二ヶ月に知り合ったの。道を歩いてたら、突然、『真理ちゃん』って呼びとめられて、僕、最初、痴呆症の人なんだと思った……」 ベンチに腰掛けてぼんやりと、春がやってくる様を眺めていた瞬が、やっと口を開く。 事情の説明を求めもせずに、ずっと瞬の側についていてくれた氷河に、瞬は目許だけで作った力無い笑みを向けた。 「でも、僕を真理ちゃんって呼ぶ以外は、ほんとに普通の人で──ううん、普通よりずっと上品で優しい人で、話すことも筋が通ってたし──」 言いたくないことなら言わなくてもいいのだと告げかけた氷河に、瞬が軽く横に首を振る。 「なんだか人違いですって言えなくて、誘われるまま、お家にお邪魔して、お茶をご馳走になってたら、品川さんが帰ってらして、説明してくれたんだ。『真理ちゃん』っていうのは、60年前に亡くなった、お二人の娘さんの名前だって」 「60年前?」 60年前とは、随分と昔の話である。 『真理』というのが、あの夫婦の孫ではなく娘の名だという事実をすら、氷河は意外に思っていたというのに。 「おばあちゃんがまだ10代で、品川さんと結婚したばかりの頃に、先の大戦が起こった。真理ちゃんが生まれてすぐに、品川さんは出征した。おばあちゃんは、戦争に行ったご主人を待ちながら、真理ちゃんを育ててたんだけど──でも、ああいう時期でしょ。食べ物がなくて、母乳が出なくて、それでおばあちゃんは真理ちゃんを死なせてしまったんだって。真理ちゃんが死んだのは、1歳の誕生日を迎えたばかりの時で──毎日新しい言葉を覚えていって、いちばん可愛い頃だよね」 亡くなった人が言っていた『金髪さんと仲良くしていたら、起こらなかった悲しいこと』というのは、どうやら先の大戦のことだったらしい。 そんな昔の戦いが、いまだに生きている人間の上に影を落としていることに、氷河は苦いものを感じることになった。 それがどういう形で為されたにしても、争い事というのは結局はそういうものでしかないのだ──と。 「おばあちゃん、すごく悲しかったんだろうね。そして、責任を感じて、自分を責めて──戦地から品川さんが帰ってきた時、おばあちゃん、いもしない娘を抱いてやってくれって、品川さんに言ったんだって」 「…………」 やっと再会できた妻の狂気を、疲れ果てて戦地から帰ってきた品川氏は、どんな思いで受けとめたのだろう。 それは、おそらく、『悲しい』とか『辛い』などという言葉では到底言い表すことのできないものだったに違いない。 その頃にはまだ、あの老紳士も、今の氷河と大して変わらない年齢の青年だったのだ。 「娘さんが死んだことを、おばあちゃんは絶対に受け入れなくて、でも、それ以外のことではごく普通に生活できたから──だから、品川さんとおばあちゃん、60年間、そこにいない娘さんがいる振りをして、ふたりで暮らしてきたんだって」 そんなふうに、互いに互いを支え合って生きてきた60年。 それは、あまりに長い──長すぎる時間である。 氷河と瞬は、その半分どころか三分の一の時間も、まだ生きていなかった。 「おばあちゃんが、なんで僕を娘さんと思い込んだのかはわからないんだ。僕は男だし、歳だって、全然中途半端でしょ。娘さんが亡くなった歳でもなければ、生きていたらそうなってた歳でもないし──」 「…………」 瞬は、あの老紳士か夫人の若い頃に似ていたのかもしれない──と氷河は思った。 若い頃のふたりは、さぞかし人に羨まれるような美男美女の一対だったに違いない。 彼女は、自分が思い描いていた通りの綺麗な娘の姿を、瞬の上に見い出したのかもしれなかった。 「おばあちゃん、もうすぐ78になるとこで、僕に会った頃には、もう随分身体が弱ってたんだ。それで、ひと月前に、あの病院に入院したの」 「78?」 せいぜい60代後半にしか見えなかった彼女の顔を、氷河は意外の感を覚えながら思い浮かべた。 ということは、品川氏も80前後ということになる。 先の大戦に出兵したというのなら、それは計算するまでもなく当然のことなのだが、そんなことにさえ、瞬に言われるまで気付かずにいた自分自身を、氷河は自嘲した。 「おばあちゃん、自分の死期が近いって感じてたのか、僕の──娘さんの──花嫁姿を見たいって言うようになって、僕、迷ったんだけど──沙織さんが協力してくれたから……。その……男物のウェディング・ドレスを作ってくれるお店を手配してくれて、フランスからすごく高価なレースを取り寄せてくれたりしたんだ。沙織さん、なんだか僕に女の子の格好させることを楽しんでたみたいなとこもあったけど」 その事情を知らされていたから、沙織は瞬の連日の深夜の帰宅を黙認していたのだろう。 ドレスを仕立てるために、瞬の帰宅が遅くなった日もあったのかもしれないと、今頃になって氷河は思い至った。 |