沙織にその相手の名を告げる代わりに、瞬が氷河を振り返る。
そして、瞬は言った。
「氷河がシベリアに行くのなら、僕は氷河と一緒に行きたい。資格取得のための勉強は通信教育でできると思うから」

「…………」
それは、氷河にとって、夢に見たことすらないほどの夢だったのである。
夢以上の現実だった。
明るく輝く瞬の瞳の前で、氷河は言うべき言葉を見つけ出せずにいた。

代わりに、紫龍と星矢が、感嘆の声を漏らす。
「ほぅ」
「そう来たか〜」

さすがは、外柔内剛で売るアンドロメダ座の聖闘士である。
人生に立ち向かうと決めたら、普通の人間がためらうようなことを平気で決意してみせる。

そして、そんな瞬とは対照的に、伝えられない思いに捕らわれて、長い時間を鬱々として過ごしてきた白鳥座の聖闘士は、まだ呆然としていた。

氷河は、この問題が解決に至る日は決して来ないのだと、思い込んでいたのである。
だからこそ、それは、氷河の中で何年も“難問”であり続けていたのだ。
それを、ごく短期間で至極あっさりと解決してみせた瞬に、氷河は、驚きと、少しばかりの当惑を感じていた。
同時に、不思議なほどの清々しさを。

氷河は、長い間、自分は好きになる相手を間違えてしまったのだと思い込んでいた。
だが、いつも側にいて、その必死に生きる様を見せられているせいで、氷河は瞬を嫌いになることもできなかった。
かといって、瞬の姿の見えないところに行くことはできなかったし、したくない。

いったい誰がどんな悪意をもって、自分をこんな出口のない迷宮の中に放り込んだのかと、氷河は自分の運命というものを、恨み呪いさえしていたのである。

その思い込みこそが間違いだったのだということに、氷河はやっと気付いた。
迷宮には、ちゃんと光の射す出口が用意されていたし、自分は、好きになる相手を間違えてなどいなかった。
その事実に、氷河は今 初めて気付いたのである。

そして、彼は、捨て鉢になって、言わずにいればいいことを口走ってしまったことを、今になって後悔した。
弁解の誘惑にかられて口を開きかけた氷河が、だが、その言葉を飲み込む。
彼の前にある瞬の瞳は、すべて承知だと言ってくれていたから。

代わりに、掠れた声で──望外の幸運に動転して掠れてしまった声で──氷河は低く呟いた。
「──予定変更。俺は山師になるのはやめる」

「あら、じゃあ、日本で何か──」
「俺は、瞬を歓ばせるためのセックスの仕方をマスターする。それが俺の人生の目標だ」

感激の思いが大きすぎたのか、自らのとんでもない人生の目標を告げる氷河の声には、ほとんど抑揚がなかった。
が、その声音に反して、氷河の眼差しは異様に熱く情熱的で、この世界に瞬以外のものが存在するのかと言わんばかりに、瞬だけをまっすぐに見詰めていた。

他にもっと適切な言い方というものがあるだろうにと顔を歪めていた星矢と紫龍も、その様を見せられて、何も言えなくなってしまったのである。

瞬が、氷河の言葉に安堵したのか、今更ながらに少し恥ずかしそうな表情を浮かべる。
ほのかに頬を上気させた瞬は、だが、氷河以上に意思的な瞳で、氷河を見あげ、見詰めていた。






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