これまで、決められた休日以外は皆勤していた瞬が、休みを欲しいと氷河に連絡を入れてきたのは、その翌日のことだった。
体調がすぐれないというメールが、氷河のPC端末に届いていた。

一緒にいられる時間は、もう残り少ない。
瞬からメールを受け取るや否や、氷河は、すべきことのないオフィスを無人にして瞬の家に向かった。

ゲゼル人は、ある意味では誰もが公務員である。
住まいも、従事している仕事のレベルと評価に合わせて、国家が国民に貸し与えている。
瞬の家は、行政機関集中区域を囲むように建っている中レベルの官舎ビルの一室だった。
成人したばかりの駆け出しの官吏の住居としては、妥当なものかもしれない。
今回の瞬の業務に関して、氷河は最高の評価をゲゼル政府に提出済みだったので、瞬はまもなく、もう1ランク上の住居に異動できるはずだった。

「体調がすぐれないと聞いたが、大丈夫なのか」
氷河がとりあえずまだ瞬のボスでいることと、地球政府高官の治外法権特権が、官舎のセキュリティシステムにものを言い、氷河はすぐに瞬の部屋に辿り着くことができた。

「あ、はい。あの……わざわざ、いらしてくださったんですか?」
氷河の姿を認めた瞬が、ドアのモニター越しに、困惑の眼差しを氷河に向けてくる。
氷河は気付かぬ振りをして、瞬の戸惑いを無視した。

「まあ、1年間一緒に仕事をして、恋人にはなれなくても、いい友人くらいにはなれたと思う。──入れてくれないか」
「ど……どうぞ。あの……今、何か飲み物を──」
瞬は、いつもとは違うぎこちない動作で、氷河を室内に招き入れてくれた。

「横になっていなくて大丈夫なのか」
「はい。ほんとは大したことないんです」
そう答える瞬の頬は青白い。
氷河は、瞬の部屋に足を踏み入れてから、血の気の失せている彼の頬に黒い汚れがついているのに気付いた。

「瞬、目の横に何かついているぞ」
「えっ !? 」
言われた瞬が、尋常でなく慌てた様子で、その頬を手でこする。
それでも不安だったのか、瞬はリビングから続く他の部屋に──おそらくはバスルームに──足早に駆け込んでいった。
恋を知らない瞬の心のように無駄な調度のない室内に、途端に、何かえた匂いが広がる。
どこかで嗅いだことのある匂いだと思い、氷河は彼の記憶の糸を辿った。
そして思い出した。
幾年か前に、地球の骨董品店で5世紀以上も前のインク壺を見掛けた時、店のオーナーが面白半分に氷河に嗅がせてくれた古いインクの匂い。
瞬の部屋に広がった奇妙な匂いは、それに酷似していた。






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