彼女が言っていたように、時刻は夜にはまだ早い。
豪奢な寝室には、まだ夕暮れの匂いが残っていた。
やがて、紫色の空が濃紺のそれに変わる。
そして、ヴィルボア公爵家の当主だという白鳥は、本当に、シュンの目の前で人間の姿に変わってみせたのである。

白鳥は、部屋の壁からも寝台や他の調度からも離れた、部屋の中央の空間にいた。
シュンの目には、この魔法に何らかの細工があるようには見えなかった。
そして、白鳥がいた場所に現れたのは、ブラヴァツキー家の夜会で会った、あの貴族の青年だった。

驚愕すべきところなのに、シュンの心は、驚きの感情よりも、“期待”が現実のものになった喜びの方に強く支配されてしまったのである。
全く意識していないのに、口許がほころぶ。
見る者にはっきりとわかるほど、それは微笑だった。
ヴィルボア公爵は、意外そうな眼差しをシュンに向けてきた。

「驚いたか?」
「──はい」
慌ててシュンは、表情を硬くして頷いた。
が、それは少しばかり遅きに過ぎた──のだろう。
公爵は、この事態を恐れても悲しんでもいない様子のシュンに、幾分戸惑ったようだった。

「これでも、1ヶ月間、ずっと迷っていたんだ。こんな呪いをかけられた身で、おまえを手に入れようとすること自体、図々しいことなのではないかと。だが、俺はどうしてもおまえが忘れられなくて──」

こんなことはありえない──と、シュンは思ったのである。
人間が白鳥に変化する魔法より、公爵のその言葉の方がずっと、シュンには奇跡に思われた。
「でも、僕は、貧乏貴族の養われ子で、それも、もとをただせば、ただの拾われ子で……」
「俺は、金だけなら腐るほど持っている」
「……?」

公爵が何を言わんとしているのかを解しかねて、シュンは首をかしげた。
それにしても、あの小間使いの少女が言っていた通り、今シュンを青い瞳で見詰めているのは、実に“お美しい公爵様”だった。

「真実の恋というのは、社会的に這い上がることが絶望的なほど貧しい人間か、金に水ほどの価値も感じられない人間にだけ、与えられるものだ。相手の出自も家格も財産も気にならない。愛したら、その心だけがすべてだ」

それは、彼がそんなふうな心をシュンに向けているという、愛を訴える言葉だったろう。
だが、シュンは、彼のその言葉を聞いた途端に、歓喜の気持ちが急速に冷えてきてしまったのである。
その言葉は、シュンの胸を全く打たなかった。
シュンの胸は、素晴らしく美しい“人間”の青い瞳にはときめいていたが、公爵のその言葉には、シュンはただ疑問を抱くばかりだったのだ。

そんなものだろうか──?
苦しい生活に折り合いをつけながら、恋をし結ばれる貧しい農民たちを、シュンはこれまで幾人幾組も見てきた。
確かに、生きるために働かなければならない者、少しでもいい暮らしをしたいと願う者は、恋だけに夢中になっていることはできないだろうが、貧しい恋人たちはシュンの目には幸福な人間として映ることが多かったのだ。

「反論したがっているような顔だな」
公爵はまた、意外そうな眼差しをシュンに向けてきた。
彼の中にあるシュンの印象は、何よりもまず、“従順”だったのだろう。
他人にそう見られることには、シュンは慣れていた。

「あの……僕は僕の意見を言ってもいいんでしょうか」
「あとで聞く。夜は短い」
シュンの不従順は、だが、どうやら公爵の機嫌を損ねることにはならなかったらしい。
彼は、シュンの腰に手をまわし、シュンの上体を自分の方に引き寄せると、その弾みで重心を見失ったシュンの身体を豪奢な寝台の上に横たえた。






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