気がつくと、氷河は、なぜか聖域のど真ん中に打ち捨てられていた。
少し背中を打ったらしい。
痛みの残る身体をさすりながら、氷河はパンドラの手荒な送別の儀に、遅ればせながら文句を垂れたのである。
「何が汚らわしいほも野郎だ。種の保存すら考えず、純粋に瞬を求める心で成り立つ恋のどこが汚らわしいというんだ。これだから、女という奴は度し難い」

ぶつぶつと性差別に類する言葉を吐きながら、氷河がその場に立ち上がった時だった。
「そこにいるのはキグナスじゃないか。何をぶつぶつ言っているんだ?」
ほとんど通りすがりの脇役としか思えない風体をした獅子座の黄金聖闘士が、氷河に親切に声をかけてきたのは。

「『えーい面倒』のあんたじゃ話にならん」
氷河は、だが、この出会いをあまり喜ばなかった。
ほも嫌いの女は度し難いが、かといって、男なら役に立つというものでもない。
特にこの場合、アイオリアは“使えない男”の代表格だった。

「何を言う。後進に道を示すのは先達の務め。何か困ったことでも起きたのか? 遠慮は無用だぞ。存分に頼ってくれ」
人がよさそうな──もとい、人のよい笑顔で、アイオリアは氷河にそう言ってきた。

──彼は好人物である。
好青年ではあるのである。
だが、だからこそ頼れない場合も、広い世界の一角、長い人生の途中には、よくあることなのだ。
氷河は、後進への助力を彼自身に諦めてもらうのが、この場を手っ取り早く収拾する最良の手段と考えた。

「恋の詩を作らなければならないんだ」
それで、氷河は、彼に自分の窮境を告げてみたのである。
「恋の詩?」
「そうだ。いや、だが、無理しなくていいぞ。俺は後輩を親身になって気遣う獅子座の黄金聖闘士の気持ちだけを受け取っておく」
「遠慮せずに頼れと言ったろう。恋の詩の一つや二つ、俺も知っている。任せろ」
「へ?」

アイオリアの思いがけない反応に、失礼なほど目を剥いた氷河の前で、だが、アイオリアは実際に恋の詩をそらんじてみせてくれたのである。
──ごく短いものではあったが。

「あなたの衣服から高まりがつたわり、私のよろこびをよみがえらせる。
一度はアフロディーテを疑いもしたが、今は早く、あなたに側に来てほしい」
「…………」
「──とかいうようなものだろう。あ、アフロディーテというのは、双魚宮のアフロディーテではないぞ。愛と美の女神の方だ」

わざわざ言わずもがなの注釈をつけてくる親切心は余計だと思ったが、氷河はこの場は素直に感嘆することにした。
恋の詩になど まるで縁がなさそうに見える無骨な朴念仁聖闘士だけに、その思いがけない教養は、氷河を驚かせたのである。

「──意外に知っているものだな。見直した。誰の詩なんだ」
感心しながら問うた氷河に、好青年アイオリアは、担任に褒められた小学生のように胸を張って、答えてきた。
「我が祖国ギリシャ最古の詩人、サッフォーの詩だ」
「…………」

その名を聞いた途端、氷河の肩から力が抜けた。
サッフォーといえば、いわゆるレスビアンのご本尊、ほも野郎(パンドラ嬢談)とは対極の位置にいる詩人ではないか。
役に立つ立たない以前に、彼女の詩は、氷河には感情的に受け入れ難いものだった。

「邪魔したな」
冷淡に一言、それだけを言って、氷河は、即座にアイオリアの前で踵を返した。






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