外来診療時間の過ぎた大学病院の診察室は、世界中の人間が死滅したのではないかと思えるほどの静寂に包まれていた。
昼の間はここで、老人が身体の節々の痛みを愚痴ったり、怪我の痛みに耐えかねた子供が大きな泣き声を響かせていたのだろう。
その喧騒は今はない。
白衣を着た“マモルくんのお兄さん”は、外来患者のための椅子に腰掛けている氷河に、一瞬の間を置いてから、その事実を告げた。

「私はワタナベマモルくんの兄ではなく、主治医です」
「マモルとかいうガキは」
「亡くなりました。1週間前です」

氷河はあまり動じなかった。
良識のありそうな大人が、たかが子供のいたずらの弁明にしゃしゃり出てくるからには、相応の理由があってしかるべきである。
“人の死”は、相応の理由だった。

白衣の外科医師は、ワタナベマモルという少年はもうずっと──2年どころではなく、6年以上──この病院の外科病棟に入院していたのだと言った。
ここに来る以前も他県の大学病院にいたらしい。

少年の肺と心臓には先天的な欠陥があり、体力や他の器官の問題で手術をすることも不可能、植物人間とまではいかないが、一人で病室を出ることを禁じなければならないほどに、気を遣わなければならない患者だったという。
「学校に行ったのは、ただの1日だけ。母親のたっての願いで、小学校の入学式に──この病院から出掛けていきました。──マモルくんには友だちなど一人もいなかった」

ワタナベマモルは、カツラギ医師が医師免許を取得後初めて担当を任された重症患者だったらしい。
思い入れも責任感も若さからくる気負いもあったのだろう、彼はその小さな患者を特に気にかけていた。
「多くの患者に平等に接しなければならない医師には、それは褒められるようなことではないのですが」
と断りを入れて、彼は氷河に告白した。

ワタナベマモルは、最初のうちは教科書を取り寄せて勉強もしていたのだが、入院が長引くにつれて、それもやめてしまったらしい。
自分の命の限界に気付いたのか──実際、その子供の心臓は老人のそれのようにぼろぼろで、いつ その機能を止めても不思議ではなかったのだ。

「残された時間は少なかったが、その時間はほとんどマモルくんが好きに使っていい自由時間でしたから──。1年ほど前らしいんですが、マモルくんにねだられた母親が、彼に携帯電話を買い与えた──らしいのです」
「病院で携帯電話か。しかも心臓病の患者が」
病院の正面玄関に掲げられていた『携帯電話使用禁止』のプレートを思い浮かべ、氷河はひとりごちるように言った。

「マモルくんはペースメーカーは入れていませんでした。……それすらもできなかったんです。その上、隔離された個室にいたので、医師も看護婦も、彼が病室に携帯電話を持ち込んでいることに気付かなかった。マモルくんのお母さんは、いつ死んでしまうかもわからない我が子の願いを叶えてやりたかったんでしょう」
母ひとり子ひとりでしたから──と、ワタナベマモルの主治医は低い声で言葉を付け加えた。

「マモルくんは、その携帯電話で手当たり次第にメールを送信したらしい。だが、いたずらメールとしか思えないマモルくんのメールには全く返信はなかったそうです。そうして半年後、マモルくんは、ついに返事を返してくれる人に巡り会った」
それが瞬だった──ということになるのだろう。
そして、瞬は、根気よく、その病気の子供の相手を続けたのだ。






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