自らの人生を満ち足りたものだと人に感じさせるものは何なのか──。
瞬のメールで大人になった子供、その子供のために馬鹿げた芝居を演じてのけた医者、そして、彼等の嘘を守るために瞬に嘘をついている自分自身──そんな人間たちの姿を数珠つなぎに思い浮かべているうちに、氷河はその答えがわかったような気がしてきたのである。

「ワタナベマモルは、おまえとメールのやりとりを始めるまでは、えらく我儘な子だったと、あの兄貴が言っていた。優しくされれば優しくなれるんだ。人間てのは、案外単純にできている」
「素直で純粋でないと、その単純なこともできないよ」
これは嘘ではなく真実を、何気なく呟いた氷河に、瞬が思いがけず険しい目と硬い口調で答える。

氷河の心臓は一瞬間だけ凍りついた。
もしかしたら瞬は、仲間の嘘に気付いていて、その嘘を信じるために素直で純粋な振りをし──振りをすることでしか、その 嘘という優しさを受け入れられない自分自身に憤り責めているのではないかと、氷河は疑ったのである。

瞬の真意を探るために、氷河はわざとふざけていることがわかる口調でおどけてみせた。
「俺は純粋で素直だから、おまえに優しくされると、倍も優しくして返したくなるな」
「氷河はそうだよね。でもそれは本当に難しいことだよ。人間がそんなものでい続けるためには、とてつもない力が要るもの」
瞬は、しかし、氷河の戯れ言を否定することはせず、大真面目な顔で頷いてみせた。
神に感謝したいことに、瞬はおのが身のことではなく人間全般のことを思って、そんなことを言い出したものらしい。
氷河は安堵の息を漏らした。

確かに人は、たった一度裏切りを経験しただけで、あるいは裏切られたと思い込んだだけでも、容易に他人を信じられない人間になってしまう。
裏があるのではないかと勘繰る人間になり、それだけならまだしも、それを人としての成長だと思い込む者も少なくない。

「人を信じられなくなったら不幸だもの。それは、とても大切なことだよ」
「それはその通りだが……おまえは無条件に誰でも信じてしまいそうで──それも馬鹿だぞ」
瞬の素直さと純粋さを愛しながら、瞬はいつか手ひどい裏切りに合って傷付くことがあるのではないかと、氷河はそれが心配だった。
神経質なほどに、氷河は、瞬が傷付くことを怖れていた。
瞬自身はそんなことを怖れていない事実を知っていても。

「そんなことないよ。僕は──」
「おまえは?」
ちゃんと信じられる人間と信じられない人間とを分けているのかと目で問うと、瞬は、氷河の前で縦にとも横にともなく首を振った。
そして言った。

「僕は、この人になら裏切られてもいいと思う人しか信じない」
きっぱりと、考えようによっては恐ろしく厳しいことを言ってのける瞬に、氷河は目を剥いてしまったのである。
少々気圧けおされたていで、氷河は苦笑を作った。

「あんな、どこの誰からのものかもわからないメールを信じたくせに」
「だから、裏切られてもいいと思ったから信じたんだよ。もし、あのメールがいたずらだったなら……そんなことをせずにいられないくらい、マモルくんは切羽詰っているんだろうと思った」
「じゃあ、おまえは、俺にも裏切られていいと思っているのか」
「氷河がそうする時は、そうせざるを得ない何かがあるんだって、わかってるよ」
「…………」

そこまで信じられたら、裏切ることはできない。
氷河も、裏切られても信じ続けるだろう、瞬をなら。
やはり、優しさは優しさを、信頼は信頼を生むものらしい。
そして、それは決して綺麗事ではないのだ。

裏切られるかもしれないという不安を乗り越えて、最初の優しさを示すことのできる人間こそが真に強い人間なのだろう。
母を失い、世界にただ一人取り残された悲劇に酔って、生きて存在することに拗ねている子供だった氷河に、最初に声をかけてくれたのも瞬だった。






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