どこでもよかったのだが──。

「なんだ? まさか、疲れてもう歩けないというんじゃないだろうな?」
「氷河……」
揶揄するように尋ねてくる氷河に、瞬は恨みがましい目を向けた。
そして、氷河を怒鳴りつけた。
「普通、人がいない見慣れたものがない場所に連れてってって言われたら、海とか月に連れて行くものでしょう!」

ここで『月』などという例えを出す瞬に、氷河は苦笑した。
が、瞬は大真面目である。
ここに比べたら、夜には氷点下170度にまで気温が下がる月から青い地球を眺めている方がずっとましだと、瞬は、足元にまといつく重い雪に辟易しながら、本気で思っていた。
寒いところに行くからブーツとコートを忘れるなと氷河に言われた時にも、まさかこんなとんでもない場所に連れてこられるとは、瞬は想像だにしていなかったのだ。

「そりゃ、氷河が僕を温泉に連れてってくれるなんて思ったりはしてなかったけど、これは──」
北陸方面に向かう高速を滑川インターチェンジで下りた氷河の運転する車が停車した場所は、北アルプス剱岳の麓にある町だった。
岩と雪の殿堂と言われる剱岳が、純白の山影を冬の青空の中央に堂々とそびえ立たせている。
車を降りた時には、麓の街で純白の雪山を眺めるだけだろうと思っていたのだが、瞬のその希望的観測を、氷河は見事に裏切ってくれた。

夏場は一般登山客も多い観光地なのだろうが、標高3000メートル近い冬山に入るには、警察なり監督庁なりへの申請と許可がいるのではないかと訴える瞬の言葉を無視して、氷河は勝手に歩を進めていく。
丈の短いオーバーコート1枚で来た瞬は、真っ白い雪が降り積んだ道とも思えぬ道を平気ですたすたと歩いていく氷河の後を追うのに必死だった。
3時間近く、登っているのか下っているのかの判別もできないまま、瞬はひたすら氷河の背中に文句を投げつけ、ひたすら足を前に運び続けていた。

氷河がやがて、切り立った岩肌の間にある平地で初めて足を止め、後ろからついてくる瞬を振り返る。
「人がいなくて、見慣れたものがないところ。希望通りだと思うが」
しゃあしゃあと言ってのける氷河を、瞬は睨みつけた。
瞬が本当はどんな場所を求めていたのかを知っているくせに、氷河はこんなとんでもないところに瞬を連れてきたのだ。
それがわかっているから、瞬は氷河を睨むしかなかった。

「いや、見慣れたものはあるか」
「どこに!」
瞬が怒声で尋ね返す。
それから瞬は、周囲を見回した。

頭上には薄い青色の空。
四方は白い雪の壁、足元には白い雪の絨毯。
午後の陽光が その光を雪に反射させて、氷河と瞬は、まるで温度のない光の中に立っているようだった。
サングラスがなくても平気なのは、太陽が遠くにあり、それがそろそろ西に傾きかけているからだったろう。

わざとらしくその場で360度身体を回転させて周囲を確認してみせた瞬に、氷河は、右手の親指で瞬の足元を指し示した。
「俺だ。おまえが今踏みしめているのは氷河だ。今はどこもかしこも雪だらけだが、夏場にはこの一帯だけに雪が残る。はまぐりの形に残るから、はまぐり雪と呼ばれているんだ」
「ここが……氷河?」

氷河が瞬に頷く。
「数千年規模の古いものじゃない。この氷河のいちばん下の氷雪は、ちょうど俺たちが生まれた頃に降った雪でできている。青二才の氷河だ」
「これが、氷河……」

日本にも氷河があるなどということを、瞬はこれまで全く知らなかった。
その場で、青二才の氷河を蹴りつけるように2、3度跳躍する。
これが氷河のロマンチシズムだというのなら、随分と峻厳苛烈かつ傍迷惑なロマンチシズムだと、瞬は思った。

人間の氷河はといえば、瞬の憤怒を楽しそうに笑って見ているだけだった。





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