日はすっかり暮れて、北アルプスの山々の上では星が瞬き始めていた。
テレビもない場所で就寝までの時間を過ごすのに、瞬は長いこと、瞬の知らない氷河を知る山男たちとの語らいを続けていた。

「こちらにはよくいらっしゃるんですか?」
バケモノのエピソードを一通り入手し終えた瞬は、新しい友人たちに、今度は彼等のことを尋ねてみた。
氷河は、彼等の横で、ほとんど口をきかず、窓の外を眺めている。
瞬は氷河のそういう態度に慣れていたし、山荘に集っている男たちも、そんなことを気にするタイプではないらしかった。

「1シーズンに1度は来てるかな。最初は、仕事でいらいらするようなことがあると逃げるように山に来ていた」
「俺なんか、奥さんと喧嘩するたび、ここに来てたぞ。ひどいときには月に3回」
「え……」

もっと爽やかな話を聞けるとばかり思っていた瞬は、気のいい山男たちの思いがけない返答に、一瞬息を飲んだ。
ここが、彼等にとって、仕事や家庭の煩わしいことから逃げ込む場所だとは、瞬は思ってもいなかったのである。
瞬の心配顔を、だが、山男たちはすぐに豪快な笑い声で消し去ってくれた。

「今は逆だぞ。山に来るために、奥さんの機嫌をとってる。おかげで夫婦円満だ」
「俺も、山に、仕事を頑張るための活力をもらってるようなもんだ」
「あ……そうなんですか」
彼等の明るい笑顔に、瞬はほっと安堵した。
が、彼等の笑顔は、瞬を別の意味で重い気持ちにさせた。
闘いにんだアンドロメダ座の聖闘士とは違って、彼等は闘いから逃げてきた者ではないのだ──少なくとも今は。

「前向きなんですね」
瞬が呟くように言うと、彼等は子供のように照れた顔になった。
「いらいらを吐き出すために山に来てるんじゃ、山に失礼だしなぁ」
「まったく」

彼等は逃げてきたのではない。
では、氷河もそうなのだろう。
ここに逃げてきた人間は、この場には瞬ひとりきりしかいないのだ。

「山がお好きなの?」
「今は奥さんの次に好きだな。昔は、順位が逆だったんだが」
家庭の事情を打ち明けた男が、今度は堂々とのろけてみせる。
瞬は、彼につられるように笑顔を浮かべていた。

ここにいる誰もが、ここを逃げ場所にしているのではない。
瞬の知らない氷河も、決してここに一人で逃げてきていたのではない。
逃げているのが自分ひとりだけなのなら、それは自分ひとりの力で変えることのできる現実である。
何よりも、瞬は、その事実が嬉しかった。





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