瞬の新しい友人たちは、エントランスを兼ねたラウンジでごろ寝をするということだった。
個室が空いていても、彼等はいつもそうするらしい。
瞬は彼等に就寝の挨拶を告げると、氷河と二人で山荘の二階にある小さな部屋に入った。

冬の夜の山は晴れている。
今夜は氷河にも瞬にも人命救助の機会は与えられそうになかった。
山荘の窓には、白いはずの山が群青色の影を落としている。
山と山の間に、青白い星の輝きを数個確かめることができた。
窓の外にあるそれらの自然物を眺めながら、瞬はぽつりと呟いたのである。
「兄さんは……どうして一人でいられるんだろう」

瞬の疑念に対する答えを持っていなかったのか、あるいは、そもそも瞬の兄の話自体が不愉快だったのか、氷河からの返答はなかった。
瞬が、群青色の山陰を背にして、室内を振り返る。
氷河は瞬の言葉を無視するように、古いストーブに火をつけるのに難儀していた。

「僕ね、ずっと前に、一人でこんなふうに知らない場所に行ったことがある──逃げ出したことがある」
「そうか」
なんとか火のついたストーブの様子を確かめてから、氷河はやっと顔をあげた。

「こんなすごいとこじゃないよ。北の方だったけど、季節も秋で、半分観光地みたいなところ。紅葉には早かったけど、あちこちで桔梗や秋海棠の花が咲いてて、平和でのどかで、出会う人たちはみんな素朴で親切にしてくれた」
その穏やかな光景を、瞬は切なく思い浮かべた。
それは何という平和な場所、何という平和な時間だったろう。

「ポケットには、沙織さんがくれたカードが入ってた。田舎だったら、家を一軒買って、贅沢さえしなければ4、50年は暮らしていけるくらいのお金が口座にはあった」
瞬は、闘いのない世界で生きていくために必要なものは持っていた。
すべてを捨てれば楽になれるとも思った。
瞬がそういう生き方を選んでも、沙織は決して瞬を責めることはしないだろうこともわかっていた。

「なのに──僕は、すぐに一人でいることが寂しくなってみんなのとこに戻ったんだ。そしたら、すぐにまた闘いが始まって、僕はまた人を──」
──傷付け、倒したのだ。
なぜ自分は再び戦場に帰ってしまったのだろうかと、その時、瞬は激しい後悔を覚えた。
血に濡れた自らの両手を呆然と見詰めながら。

「一人で旅に出たのがいけなかったのかなぁ……と思って、氷河を誘ってみたの」
「一人でないなら俺でなくてもよかったのか」
それまでほとんど無言だった氷河が、やっと言葉らしい言葉を口にする。
もしかして氷河は拗ねてくれているのだろうか──と考えて、瞬は氷河に微笑もうとした。
だが、すぐにそうではないことに気付く。

氷河は怒っている──ようだった。
今日のことではなく、瞬が一人で逃げようとした、かつての旅のことを知らされて。
当然の怒りだと、瞬は思った。
「昔のペルシャの詩人がね、『自分の愛する者が見つかったら、世界など放っておけ。それでもう十分なのだから』って書いてるんだ。だから……二人だったらどうなるのか、試してみたかった」

ひとりでは駄目だったから。
愛する者と二人ならその逃避行は可能なのかもしれないと、昨夜氷河に身体を揺さぶられながら、瞬は考えたのだ。
その時には、まさか氷河にこんなところに連れてこられるとは思ってもいなかったが。


『自分の愛する者が〜』  By ハーフェズ(ハーフィス)(1326-1389)



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