「氷河が誰を好きでいるかなんて、んなこと、見てて わかんないもんなのか? 氷河が瞬を好きでなかったら、サルだってバナナを嫌いだし、ヒグマはシャケが嫌いだし、ライオンだってシマウマが嫌いだろ」

瞬を氷河のエサと見なしたその例えはどうかと思ったが、星矢の言わんとするところはわかりすぎるほどにわかったので、紫龍は星矢に訂正を促すことは、あえてしなかった。

「まあ、視覚はあるがままの姿を捉えるが、視覚が捉えたものに意味づけをするのは、その人間の感情と思考だからな。氷河のサル同然の行為をただの助平と決めつける俺たちもいれば、愛と情熱のたまものと思いたい瞬もいるさ」
「めんどくさいもんだな」

それは確かに面倒なものだった。
人が、その面倒な“心”というものを有しているからこそ、人の住むこの世界では二つの正義が相争うこともあるのである。
人間は、誰もが同じ価値観にのっとって生きているわけではなく、また、錯誤や誤解を完全に排除することもできない、不便極まりない生き物なのだ。
だからこそ、人と人が互いを理解し合えた時の喜びは これ以上なく大きく、また、これ以上なく幸福なものになるのだが。

その幸福の中に、瞬は今いた。
やっと辿り着けた場所だった。
星矢たちも、当然のことながら、瞬の涙が乾きかけているのを見ていて悪い気分になるはずがない。
「でも、これで一件落着だろ!」
「とんでもない! 聖域があなたたちの到着を待ってるわ」
張り切って、この茶番劇の終幕を宣言した星矢に、いつのまにかその場にやってきていた彼等の女神が待ったをかける。

「あ、僕も行きます! 僕、今度はちゃんと星矢たちの足手まといにならないようにしますから」
頬を幸福の色に上気させて、瞬がアテナに告げる。
そんな瞬を見て、沙織は小さく一つ吐息した。

「あのね、瞬。あなたが星矢たちの足手まといになると私が言ったのは、あなたの腰の具合いなんかを心配したからじゃないの。今、聖域に大量発生している敵はアサヒエビグモ。瞬、あなた、足が8本以上ある昆虫はダメでしょう?」
「アサヒエビグモ……が大量発生……?」

嫌いなだけに、瞬はその生き物に関して詳しい知識を有していた。
それが瞬に不幸を運んでくる。
それでなくても手に入れたばかりの幸福のせいで気が緩んでいた瞬は、沙織が口にした生き物の姿を想像しただけで、その場にばったーん! と卒倒してしまったのである。

「瞬……! 瞬、大丈夫かっ !? 」
突然ベッドでない場所で失神してしまった瞬に慌てたのは氷河である。
倒れた瞬の身体を抱き起こし、彼は顔もあげずに沙織に問い質した。
「アサヒエビグモというのは、そんなに不気味で毒性の強いクモなんですかっ!」

「成虫でも体長5ミリくらいの小さなクモよ。ダニがちょっと大きくなったような可愛いクモで、毒も持ってないわ。でも、足は8本あるのよね……」
氷河の腕の中に収まっている瞬を見おろしながら、沙織が気の毒そうに呟く。
この場合、問題なのは、あくまでも足の数らしい。

「ご……5ミリ……?」
たとえ体長5ミリの小さなクモでも、大量発生されたなら、不気味には違いない。
だが――。

無論、氷河とて、足が8本以上ある生物を瞬が苦手としていることは知っていた。
それらのものを避け、それらのものと闘わずに済むようにと願う気持ちが、その手の昆虫満載だったアンドロメダ島で、瞬に驚くべき俊敏さと忍耐力を培ったらしいことも――瞬自身は決して多くを語ろうとしなかったが――薄々察していた。
その手の生き物は、いつ、どこから現れるかわからない。
瞬にとってアンドロメダ島での日々は、一秒たりとも気の休まることのない緊張の連続だったに違いない。

しかしながら、重量5トン超のヘリをものともせずに撃墜(未遂)してのけた瞬が、体長5ミリのクモのせいであえなく気を失ってしまう現実が、氷河はどうにも納得できなかったのである。
「瞬! 瞬、目を開けてくれっ」
氷河がどれほど必死に瞬の名を呼んでも、固く閉じられた瞬の意識は、なかなか彼の許に戻ってきてくれなかった。






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