瞬が目覚めたのは、朝になったからではなく、その目と耳を覆っていたヘッドギアが外されたからだった。 瞬の前には、気まずそうな顔をした星矢と紫龍と氷河と、そして、にこやかな笑みを浮かべた沙織が立っている。 氷河たちの手には、瞬が装着していたものと同じベッドギアが握られ、瞬が身体を起こしたのはレザー製のリクライニングシート。 その正面には、あのコロッセオが、壁一面を使ったスクリーンに映し出されていた。 「どう? 今度、我がグラード・コンピュータエンタテインメント社が大々的に市場展開しようとしているスタンドアロンゲーム『バーチャル・リドルストーリー』は? 今回は『女か虎か』バージョンだったけど、この他にも何パターンかが選べるようになっているのよ。楽しめたかしら?」 その結末を見ていたというのに、“ゲーム”を楽しめたかと、邪気もなく訊いてしまうことのできる沙織の神経を、星矢と紫龍は心底から尊敬したのである。 彼等は、瞬と氷河とに交互に視線を走らせながら、ひたすら きまりの悪い思いをすることしかできずにいるというのに。 ――瞬と瞬の仲間たちは、21世紀の日本・城戸邸の視聴覚室にいた。 瞬の記憶は混乱している。 記憶だけでなく身体も――五感も――瞬はこの現実世界に戻り切れずにいた。 「……ゲーム?」 沙織はそれをゲームだと言う。 しかし、それはただのゲームにしては臨場感がありすぎ、その内容も痛烈に過ぎた。 だが、冷静になって考えてみると、あの“物語”の設定が現実の歴史に即していない作り物だということに気付く。 後にプロイセン王国となるドイツのブランデンブルク選帝侯領は、プロイセンの名を冠するまでは王国ではなかったし、そもそもローマ風の円形闘技場が、遺跡としてではなく16世紀のドイツ東部に存在すること自体がおかしいのだ。 「瞬はまだこっちには戻りきれていないのかしら? 本当にあの世界にいるみたいだったでしょう? この商品の画期的なところは、亜酸化窒素──つまり笑気ガスをプレイヤーに吸入させることによって、脳の海馬領域に刺激を与えることにあるの。海馬は一時的な記憶を蓄え、必要な記憶のみを選択する部位なんだけど、そこに刺激を送って、知覚が鈍り浮遊感や現実世界からの乖離を自覚し始めたところに、ゲーム世界の記憶を送り込むのよ。多少記憶の錯綜や混乱は起こるけど9割方 物語の登場人物の気持ちになれるわ。つまり、本気のなりきりゲームということね。これはヒットするわよ!」 「笑気ガスで脳を刺激って、それ、危なくないんですか?」 思考の混乱から回復しきれていない瞬に向かって得意げに説明を重ねる沙織に、星矢が、いつにない丁寧語で尋ねる。 話題は何でもいいから、瞬の意識を、氷河の選択とは別のものに向けたいと思っているのが明白な問いかけだった。 星矢の質問に、やはり得意げな口調で沙織が答える。 「その点は大丈夫よ。笑気ガスは歯医者さんなんかで患者をリラックスさせるために使われている人畜無害のガスだから。中毒性も依存性もないし、処方箋なしで一般人が普通に買えるものよ。米国では、ホイップクリームの泡作りに使用されてるわ」 「…………」 そんな基本的なことに抜かりはないと言わんばかりの沙織の態度に、星矢は口をつぐむことしかできなかったのである。 もし本当に販売の許可が出たら、確かにこのゲームはヒットするだろう。 それは星矢も紫龍も疑わなかった。 現実世界から逃避できるひと時を手に入れられるというだけでも、その購入を望む人間は多いに違いない。 だが、それが一人だけで成り立つゲームならともかく複数参加型のゲームで、プレイ中には現実世界を忘れていられても、ゲーム終了後にはプレイヤーは、ゲーム中の記憶を残したまま現実の世界に戻ってこなければならないのである。 それがどういう問題を引き起こしかねないことなのか、沙織はわかっているのだろうか――? 単なる脇役としてゲームに参加させられた星矢と紫龍ですら、ゲームを終えた今でも、自分の中にわだかまる不穏な気持ちを消し去ることができずにいるというのに――。 「沙織さん、このゲームの発売はやめた方がいい。悪趣味だ。ゲームのせいで友情が壊れたり、恋人同士が別れたりすることにもなりかねない」 「そうね。そういう意味ではとても危険なゲームね。でも、私は、だからこそヒットすると思うのよ」 どうやら、今この場にいるのは人類愛を謳う女神ではなく、市場競争を勝ち抜こうとするシビアな企業経営者であるらしい。 あるいは、それは、人間に慈悲よりも試練を与えようとする神の愛なのかもしれなかったが。 いずれにしても沙織は、紫龍の忠告をあっさりと聞き流した。 「パッケージには、『ゲーム中には現実世界の記憶がほとんど失われている』旨の注意文言を入れるわ。ゲーム終了後には、それで言い訳ができるでしょう」 そこまで言われてしまった星矢と紫龍は、もはや沙織の説得を諦めるしかなかったのである。 販売許可がおりるかどうかもわからないゲームより、今は氷河に殺されかけた瞬の心をいたわる方が、彼等にとっての優先事項だった。 「ほ……ほら、ゲーム中には現実世界での記憶がほとんど失われてるってもさ、完全に記憶が消えちまうわけじゃないだろ。氷河には、おまえがその気になったら虎なんか簡単に倒せるんだってアタマがあったんだよ、きっと」 「おそらくそうだろう。俺や星矢にも、おまえが仲間だという認識が記憶のどこかに残っていた――と思う」 瞬と氷河の間を必死に執り成そうとしながら、しかし、星矢と紫龍は、あの悪趣味なゲームの中での氷河と瞬の真意が未だに理解できずにいたのである。 なぜ氷河は、瞬の命の継続を妨げるものがそこにあることを知りながら、虎のいる扉を瞬に指し示したのか。 本当に、瞬を他の男に渡すくらいなら死んでくれた方がいいと思ったのか、あるいは、瞬が飢えた虎など物ともしない力を持つ聖闘士だという認識がどこかに残っていたのか。 そして瞬はなぜ、氷河に教えられた扉を選ばなかったのか。 氷河を信じていなかったからなのか、自分が死んでしまった方が氷河のためになると考えてのことだったのか、そもそも瞬は、氷河がどちらの扉を示したと思っていたのか――。 星矢たちには全くわからなかった。 |