カミュ国王が部屋を出ていって二人きりになっても、氷河王子はその青い瞳でじっと瞬を見詰めているばかりで、一言も口をきこうとしません。
さすがに気まずさを覚えた瞬は、氷河王子に恐る恐る挨拶をしました。
「あの、瞬といいます。こんな立派なお城でのお勤めには慣れていないので、粗相をすることもあるかもしれませんが、一生懸命勤めますのでどうぞよろしくお願いします」

瞬はぺこりと頭を下げ、そして、下げた頭をあげるついでに、氷河王子の顔を窺うように覗き込みました。
氷河王子は、相変わらず無言で瞬を凝視しています。
顔立ちが整っているせいもあるのでしょうが、氷河王子の無表情は どこか怒っているようにも見えて、瞬は少し気後れを覚えました。
けれど、ここで挫けるわけにはいきません。
瞬の肩には、北の国の未来と、国外追放中の兄の運命がかかっているのです。

「僕がお気に召しませんか? 僕に何か不都合があるんでしょうか?」
少し気負って、強い語調で瞬が尋ねますと、氷河王子はそれではっと我にかえったようでした。
そして、氷河王子は瞬に向かって初めて言葉を発しました。
「――男にも女にも見えないが、どっちだ」
問われて、瞬の胸は微妙にずきずき痛みました。
もしかして氷河王子の長い沈黙は、その答えを探っていたせいだったのかもしれないと思うと、情けなさが募ります。
けれど、とにかく兄の国外追放取り消しのご褒美を勝ち取るまでは、瞬はそんなことで挫けるわけにはいきませんでした。

「僕は、氷河王子様の身のまわりのお世話をするために雇われました。その仕事をするのに性別は関係ないと思います」
ここで自分が男と知れれば、カミュ国王の目論見が水の泡になるかもしれません。
かといって、女ということにしてしまえば、女嫌いの氷河王子に追い払われてしまうかもしれません。
そのどちらもが、瞬の望む状況ではなかったので――瞬は氷河王子に事実を告げることも嘘を言うこともできませんでした。
瞬は、どうにかして氷河王子の質問に答えずに、この場をやり過ごそうと思いました。

氷河王子の質問への答えをはぐらかすための瞬の発言を自分への反駁ととったのか、氷河王子が少し驚いたような顔になります。
なにしろ氷河王子は、強大な北の国の次期国王。
氷河王子に意見する者や――まして反駁する者など、これまで彼の周囲にはいなかったのでしょう。
瞬は氷河王子の勘気を覚悟したのですが、次に氷河王子が瞬にかけた言葉は、瞬の想像したものとは随分違っていました。

「しかし、おまえが女なら力仕事は頼めないし――俺としても仕えてくれる者の性別くらいは知っておきたい」
「え……?」
氷河王子は意外に気配りの人のようでした。
王子様なんて我儘で高慢で他人を気遣うことなど知らない人種だろうと思っていただけに、氷河王子の言葉に瞬は驚いてしまったのです。
けれど、だからと言って、ここで真実を告げるわけにはいきません――嘘を言うわけにもいきません。
瞬は踏ん張りました。

「女の人にだって力持ちはいるし、男の人にだって非力な人はいるでしょう。一人では持てないものを運べと命じられたら、僕は誰か力を貸してくれる人を捜します。王子様は僕のことなどお気になさらなくて結構です」
「おまえはそう言うが、女に風呂や着替えの世話をさせるのは差し障りがあるだろう。特におまえのように、どう見ても未婚の若い者には」
「…………」
またまた意外な返答です。
氷河王子は本当に、まるで普通の人のように、他人を思い遣ることができる王子様のようでした。
おかげで瞬は苦境に追い込まれてしまいましたが。

「ご身分の高い人は……使用人を自分と同じ人間とはみなさないものなんでしょう? 兄がよく言ってました。僕たちみたいに身分が低くて貧しい者は、貴族や王族には人間じゃなくて物と同じなんだって。王子様は、僕のことは椅子かテーブルと思ってくださればいいんです。椅子やテーブルに肌を見られたって何ということはないでしょう?」

瞬は、豊かなこの北の国の最下層に位置する労働者でした。
兄が国外追放になってからは特に 苦しい生活を余儀なくされてきました。
瞬はまだ子供と言っていいほどに若く、外見が外見なだけに一人前の労働力を有していると思ってもらえず、実入りの良い仕事にも就けなくて、働いても働いても食べていくのがやっとの生活を続けてきたのです。
ですから――思いがけない氷河王子の言葉に混乱した瞬は、ついつい挑戦的な口調になってしまいました。
しまった! と後悔した時には、後の祭り。
瞬は、挑戦的な口調で挑戦的な言葉を、氷河王子に言い終えてしまっていたのです。

国家権力に挑戦状を叩きつけたも同然の瞬を、しばし無言で見詰めていた氷河王子は、ややあってからゆっくりと口を開きました。
「そういう考えは――おまえこそが、俺を自分と同じ人間と認めていないことだと思わないか」
「え?」

氷河王子の言葉に、瞬はまたしても――とても驚きました。
けれど、氷河王子の言うことは、確かに一理あります。
物事の視点というのは1つだけではありません。
瞬は弱者の立場からしか、ものを見たことがありませんでした。
けれど、王子様の立場から見れば、瞬の主張は全く逆の意味を持つことになるのです。
氷河王子の鋭い指摘を受けて、瞬は初めて、自分は弱者の立場におごっていたのかもしれない――と思い至り、そんな自分を深く反省しました。

「ご……ごめんなさい……」
瞬は貧しい生活には慣れていましたが、貧しさのせいで心まで頑なにはなっていませんでした。
ですから、瞬は氷河王子に素直に謝罪しました。

氷河王子は――あまり感情を大らかに表に出すタイプの王子様ではないようでした。
新参の使用人の反駁に機嫌を損ねたのか、何とも思っていないのかの判別の難しい表情で、彼は瞬に言いました。
「まあ、いい。世話になる」
「あの……すみません。本当にごめんなさい」

瞬が再度氷河王子の前で腰を折ると、氷河王子は瞬に顎をしゃくってみせました。
「わかればいい。俺の裸を見たら、ちゃんと恥ずかしがるんだぞ」
「はい……!」

瞬はもちろん大真面目に氷河王子に頷いたのです。
が、そんな瞬を見て、氷河王子は初めて笑った──ようでした。
それはほんの一瞬のことでしたので、自分が本当に氷河王子の笑顔を見たのかどうか、瞬は自信は持てなかったのですけれど。

その日、氷河王子は、瞬に自分の入浴の世話をさせました。
そして、命令通りに恥ずかしがる瞬を見て、大いに満足したようでした。






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