「瞬に会わせてくれ」 氷河がエリスにそう頼んだのは、決して彼女と彼女の城の力に屈したからではなく、無意味な意地のために瞬に会えずにいる時間をこれ以上長引かせたくないと考えたからだった。 空間のねじれたこの城で瞬を捜し求めることと、この城のように得体の知れない魔女の心を変えることのどちらが よりたやすく目的に到達できる手段なのかの判断は、氷河にもできるものではなかったのだが。 「あの子はもう私のお人形さんだよ」 エリスは、初めて 「私のキスは、1度目は、その者の心を凍らせる。2度目は、大切なものを忘れさせる。そして3度目には、死に至らしめる。あの子は私のキスを2度目まで受けた。今のあの子には私しか見えていない。会っても無駄だ」 そう告げてからエリスは挑むような表情で氷河を見詰め、氷河は、瞬時、思考する能力と言葉とを失った。 「あの子は自分が生きていることを悲しんで絶望していたから、さほど迷った様子もなく、私の口付けを受け入れた。あの子は以前はとても温かい心を持った人間だったようだけれど、今はこの城に同化している」 「そんなことが……」 そんなことがあるはずがなかった。 白い魔女が瞬の身体を覆うように抱きしめる様を脳裡に思い描いた氷河は、慌ててその幻想を振り払った。 そんなことがありえるはずはない。 瞬は強い人間なのだ。 人よりはるかに傷付きやすく、だが、だからこそ、人より多くの苦しみを乗り越えて強くなった人間のはずだった。 そして、瞬はいつも春のように微笑んでいた。 春は、やがて夏になることはあっても、凍える季節に戻っていくことはない。 春は、冬を侵食する季節。 それは冬よりも強くたくましく、命を育むために訪れる季節なのだ。 「その3度目のキスとやらがまだなのなら、瞬は生きているんだなっ!」 「なに?」 エリスは、“忘れること”と“死”をほとんど同じものと考えていたらしい。 忘却と死の間にある僅かな隙間に希望を見い出そうとする氷河に、彼女は少しばかり呆れたような顔になった。 「なぜそんなことに向きになる。これまであの子を無視してきたのはおまえだろう。私が口付けるまでもなく、あの子の心はおまえの冷たい仕打ちのせいで凍りかけていた」 『瞬は強いのだと思っていたから』 そんな見苦しい弁解を口にするほど、氷河は恥知らずではなかった。 それは――氷河が瞬をそういう人間だと思っていたことは、紛う方なき事実ではあったが。 「瞬に会わせろ。瞬と話をさせてくれ」 「――名を呼んでも答えてもらえず、振り返ってももらえない。差し延べた手は拒まれる。あの子はこれまでずっと、今のおまえと同じ思いを味わってきたんだ。おあいこだね」 「…………」 「あの子はいつもおまえに向かって手を差し延べていたのに、おまえは無視してきた。拒否よりひどい行為だよ、それは。拒否より卑怯な行為だ、それは。自分を見ていてほしい。追いかけ続けてほしい。だが、応える気はない? あの子は、おまえが自分の価値を確信するための道具にされ続けていたんだ」 瞬がそんな恨み言を他人に訴えるはずはない。 白い魔女が見透かしているのは、瞬ではなく氷河の心の内の方だった。 そうでなければならない。 そうであってくれと、氷河は祈った。 「あの子は傷付いている。そして、諦めた。その時に、あの子の心と命は終わったんだよ。今のあの子は私しか見えていない。私の別の名を知っているか。“絶望”というんだ。この国は人間の絶望を閉じ込めた国だ」 「嘘だ。カミュやアイザックが、たとえ死んでも絶望などするはずがない。まして瞬が――」 氷河の反駁は、エリスによってすぐに遮られた。 「人間はね、愛する者の拒否や無視に出合うと、最初は悲しむ。次いで憎しみの心が生まれ、最後に諦める。あの子は絶望してるよ。おまえにつれなくされたせいで」 エリスが口にした、“瞬の絶望の理由”は、むしろ氷河を力づけた。 それは決してありえない理由だったのだ。 「瞬は絶望などしない。瞬が、俺一人のことで絶望したりするはずがない。瞬は俺だけを見ているわけじゃないんだ。瞬は、瞬の世界の一部として俺を見てるだけで、俺に冷たくされたからと言って、それくらいのことですべてを諦めたりなど――」 気負った氷河の訴えを、エリスは、覆いかぶせるような嗤笑で中断させた。 「ほほほ。本音が出たね。おまえは、あの子のすべてではない自分に憤り、あの子が自分だけを見てくれないことに苛立っていた。あの子が自分だけを見ていないことが――つまり、あの子の気持ちが恋ではないことが不満なんだ。それだけのことで、おまえはあの子に冷たくした」 「…………」 氷河には、エリスの言を否定する言葉を見付け出すことができなかった。 それは、彼が努めて考えないようにしていた、ただの事実だったから。 「高慢で我儘なおまえには、この国が似合いだよ。そして、私はそんなおまえが可愛くてならない」 エリスの嗤笑が憫笑に変わる。 同時に彼女の声音は、徐々に誘惑者のそれに変化していった。 「おまえも諦めたらどうだ? あの子はおまえのものにはならない。おまえの手に入ることはない。無理だろう? おまえだってそう思うだろう? それともおまえは、自分がそれだけの価値を有しているとうぬぼれられるほど、目の見えぬ愚か者か?」 「俺は……」 「おまえもそろそろ私のキスを受け入れることだ」 エリスが白い手を――冷たい死人のような手を――氷河に向けて伸ばしてくる。 触れられたのは頬なのに、氷河は心臓が凍りつきそうになって、その手を払いのけた。 彼女がその身に備えている冷気は、自然の冬の寒さとは本質的に冷たさの種類が違っていた。 瞬の温かい手とエリスの冷たい手。 たとえ前者が苦しみだけを、そして、後者が永遠の安らぎをもたらすものだったとしても、氷河が欲しているのは瞬の手だけだった。 |