ふいに、どこからか不思議な風が吹いてきた。
春の微風のように、穏やかな風。
それは、氷河がこの不自然な白い世界に来て初めて接する“温かいもの”だった。
城の中の空気が色を帯び始めている。
氷河は、以前にもその空気に触れたことがあった。


すべてを諦めた氷河が、安らかな死というものに身を任せようとしていた時、彼の心と身体を包み込んだ温かいもの――。
あの時、氷河は最初、その温かさを、再会できた母親の抱擁のもたらすものだと思った。
この温かさにもう一度触れることができるのなら、もっと早くすべてを諦めていればよかったと、その快さの中で氷河は思ったのである。

だが、それは彼の死んだ母親のものではなく――生きている仲間の命そのものだった。
その事実に気付いた時の驚きと、胸が詰まるような切なさ。
生きていることの喜びが圧倒的な力で氷河を支配し、そして、氷河は蘇生したのだ。


氷河は、あの時と同じように、その温かい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
瞬は、すべてを諦めて 自ら氷の棺に閉じ込められていったような男に、『諦めるな』と語りかけ続けた人間である。
その瞬が、たとえ世界のすべてが彼の意思に反するようなものになったとしても、諦めたりなどするはずがない。
そんなことがあるはずがなかった。

「瞬は諦めない。死なない」
――俺が二度と諦めないように。
氷河は白い魔女に断言し、
「それは……どうかな」
白い魔女は、唇の端を歪めて嘲笑のようなものを作った。
そう告げるエリスの手が、小刻みに震え始める。

暖かい風。
懐かしい風。
それは、瞬がいつもまとっている空気だった。

「おまえに幾度も冷たくされて、そのたびにあの子の心には薄い氷が張って、それが幾重にも幾重にも重なって――時間と自然が決して溶けない氷河を形作るように、それは――」
「瞬は諦めない」
氷河はもう一度、その言葉を繰り返した。

それがわかってたのに、なぜ瞬を試すようなことができたのか――氷河は、今になって、その本当の理由がわかったような気がしたのである。
それは、瞬の気持ちが恋ではないから――ではなかった。

人が 信じたい人を信じられないのは、自分に自信がないからである。
他に理由はない。
自分自身を信じることができないから、自分以外の人間を信じることもできないのだ。

では、どうすれば自分を信じられるようになるのか。
その答えは、呆れるほど簡単に見付けることができた。
自分に嘘をつかなければいいのだ。
自分の気持ちを偽らなければいい。
氷河の中にある 瞬を好きだという気持ち、瞬と共にいたいという気持ちに、嘘はなかった。

そんなにも瞬を諦められない自分自身に気付いてしまった氷河の周囲を包む風は いよいよ温かさを増し、その風は、氷河だけでなくエリスの髪やドレスまでをも揺らし始めていた。
嵐の前触れの風に ばたばたと翻弄されるカーテンのように、エリスのドレスの裾が騒ぎ始める。

「おまえたちはなぜ……!」
そして、その風は、それまでずっと氷河の前で冷然とした態度を崩さずにいたエリスの表情を苛立ったものに変えていった。

「どうして おまえたちは……!」
「エリス……?」
エリスの声は、ほとんど悲鳴になっていた。
温かい風は――おそらく、この城のどこかで瞬が起こしている風は――氷の城に満ちていた冷たい空気に絡み、相争い、大きな渦を生みかけている。

氷河が、春は穏やかで暖かいばかりの季節ではないのだということに思い至った時、気流は嵐に変わっていた。






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