――氷の城が崩れていく様を見たような気がする。 が、それは幻影か、あるいは、そもそもすべてがただの夢だったのかもしれなかった。 気がつくと氷河は、あのU字谷の上に立っていた。 氷の城の存在を確かめられるものはどこにもなく、エリスも彼女の白い世界も そこにはなかった。 冬が通り過ぎていったシベリアの大地には、残雪を押しのけるようにして緑の色が広がりつつある。 少し離れたところに、雪の白より、草の緑より鮮やかな様子をした瞬が、空を見上げるようにして立っていた。 「瞬っ!」 駆け寄って、氷河は、有無を言わさず瞬を抱きしめた。 その腕から逃れようとするに違いないと思っていた瞬は、だが、氷河の予想に反して、氷河の胸の中で小さな吐息を洩らしただけだった。 そして、その吐息よりも小さな声で、 「あのお城を溶かしたの、僕の小宇宙かな……」 と、緊張感が抜けてしまった様子で呟いた。 「瞬……」 自分の力の大きさに、まるで現実感を抱いていないらしい瞬に、氷河が少しばかり呆れた顔になる。 瞬は、それを自分の所業を責めるものと受け取ったのか、突然 いたずらの弁解をする子供のような表情になった。 「だ……だって、氷河が来てるって言うんだもの! 氷河が僕を捜しに来てくれたって教えられて、なのに会わせないなんて意地悪言われて、でも僕は会いたくて……!」 そんなことで あの嵐を起こしたというのなら、春という季節の力は底知れない。 そして、瞬のその訴えを聞いて、氷河は、エリスと彼女の城が自分だけが見た幻ではなかったことを知った。 「あの女は何者だったんだ」 少なくとも彼女は、聖闘士だからという理由で 氷河と瞬をあの城に招いたのではなさそうだった。 アテナに弓弾く者ではなく、むしろ、日本の雪女や童話の雪の女王、どちらかといえば狐狸妖怪の類に近いもののように、氷河には思われた。 瞬が、氷河の考えを見透かしたように、微かに横に首を振る。 「多分、あの人は人間だよ。すごく昔の人だと思うけど、何かとてもつらいことがあって――悲しみを憎しみに変えてしまった人。それで、こんなところに氷の城を作ってしまった人みたいだった」 「あれが人間?」 「うん。それで、あの……僕が嫌いみたいだった。氷河を自分の仲間にしたがってた」 「俺を? おまえじゃなく?」 瞬の言葉は意外ではあったが、氷河にはそれは事実であるような気もした。 瞬よりも自分に好意を持つ人間がどういうものなのか、氷河には容易に想像できた。 「おまえ、あの女に、人は信じるに足るものだだの、人が生きていくのに大切なのは憎しみよりも愛情だだの、その手のことを言ったんだろう?」 「うん。だって、あの人、誰かを信じるなんて無駄なことだとか、他人に期待しても裏切られるだけだとか、そんなことばっかり言うんだもの」 瞬のその真っ当な考えを素直に受け入れることのできない人間というものが、この世には存外に多く存在する。 エリスもそうだったのだろう。 そんな瞬に反感を抱いた彼女は、そして、瞬に冷たく接していた男を自分の同類と見て、仲間に引き入れようとしたに違いない。 そのための囮として人形のような瞬の幻を作り、氷河の心に諦めの感情を吹き込もうとした――。 彼女は、人を信じることができない者同士が徒党を組むことの矛盾と虚しさに思い至らなかったのだろうか――。 「あの人、お城と一緒に消えちゃったのかな……」 瞬の声音には同情心が満ち満ちている。 もしエリスがこの場にいたら、彼女はますます瞬への反発心を強めたことだろう。 そう考えて氷河は――氷河もまた、エリスに同情した。 「その方がいいだろう。当人のためにも」 「そうかもしれないけど……」 一瞬ためらってから、瞬は口調だけは自信を持てていないように、その実、強い確信を持っている様子で言い募った。 「本当に何もかもに絶望しちゃった人が、仲間なんか欲しがるはずないでしょ。彼女は多分、絶望しきれない自分に絶望してたんだよ。彼女はきっと、自分だけを見てくれる人が欲しかったんだと思う。そんなふうだった……」 瞬の推察が正しいのなら、確かにあの魔女と氷河は同類だったのかもしれなかった。 諦めようとして諦めきれず、孤独を受け入れようとして受け入れきれずに もがき 足掻きながら生き続けるものが人間という存在なのなら、彼女は確かに人間だったのだ。 |