「父が亡くなってから幾度も、母は僕に言ったよ。おまえさえいなければ、私はあの人のところに飛んで行くのに――って。だから僕は いい子にしてるしかなかった。そうしないと、僕は母に捨てられると思ったから」
「瞬……」
瞬が、そんな残酷な言葉を吐く母親に捨てられることを怖れたということは、他に瞬を愛してくれるものがいなかったということなのだろう。

『同じ城戸の血を引くものでありながら、僕だけがずっと何不自由のない生活をしてきて――』
氷河はふいに、二人が初めて出会った日に瞬が告げた言葉を思い出した。
どんな気持ちで、瞬はその言葉を口にしたのだろう。
氷河は、母に関することでは、優しく美しい思い出しか持っていなかった。

「いい子でいるって、結構難しいんだよ。辛気臭くしてたら駄目。無闇やたらに明るく元気にしてても、母の勘に障る。母は暴力はあまり振るわなかったけど、小さな子供には、そんな経験、一度だけで十分な脅威だよね。鈍いのも不愉快で、気がまわりすぎるのも不愉快で、そんな母の気に障らないように振舞うのは、本当に――」
その時、瞬はいったい幾つだったのだろう。
氷河は、言葉と声とを同時に失った。

瞬が、そんな氷河に、あの とらえどころのない微笑を向けてくる。
「セドリックも必死にいい子でいようとしていたのかもしれない……って思ったんだ。自暴自棄になって、いい子でいることをやめたら、それでおしまいでしょ。だから、一生懸命いい子でいようとして――」

言いかけて、だが瞬はすぐに首を横に振った。
「でもセドリックは、きっと僕とは違う。彼には氷河と同じように、彼を愛してくれる優しいお母さんがいたんだから――やっぱり、フォントルロイ卿は僕じゃなくて、氷河の方だね」

瞬はつらそうに、それでも、微笑としか見えない表情を氷河に向け続けている。
氷河は、そんな瞬の目を見詰めたまま、意を決して瞬に尋ねた。
「瞬、おまえは不幸だったのか」
「氷河は幸せだったんでしょ。氷河は、ご両親に愛されてたんだよね」
瞬の答え――答えともいえない答え――は、すぐに返ってきた。

「愛されたことがあるから、愛し方を自然に知っていて、だから、氷河は人を許すことも簡単にできてしまうんだ。僕とは違う」
「おまえは……俺が憎いのか?」

『同じ城戸の血を引くものでありながら、僕だけがずっと――』
それが逆恨みだということはわかっているのだろう。
瞬は、氷河に微笑を向けたまま、その瞳からぽろぽろと涙を零し、小さく頷いた。

「うん……。ごめんね」
「構わない」
泣きながら、それでも微笑み続けようとする瞬の肩を、氷河は抱きしめた。

大声をあげて本当に泣いてしまったら――それは母の気に障る行為で、おそらく瞬はそういう泣き方を知らないのだろう。
愛されなかったから愛し方を知らず、人を許す術も自分は知らないと 瞬は言うが、それは瞬が冷酷な人間だということではない。
瞬は結局のところ、人に愛されたいという ごく普通の願いを願う善良な人間なのだ。

瞬がこんなことを突然従兄に語り出したのも、自分に好意的に接してくれる人間を騙し続けていられないと思ってしまったからに違いなかった。
そして、それは、自分の内にある暗い部分を告解することで自分が許されるためではなく、罪悪感から解放されるためでもなく――瞬はただ、そうせずにいられなかっただけなのに違いない。

もしかしたら祖父もそうだったのではないか――と、氷河は思った。
そして、そんなふうに簡単に人を許す気持ちに至れることが、肉親に愛された記憶を有するという幸運に起因しているのなら、自分は確かに幸運な人間なのだろうと、氷河は、瞬の肩の震えをその胸に感じながら思ったのである。






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