結局、瞬が持参したひまわりの花は、最初に星矢が考えた通り、星の子学園の水飲み場に置かれていたバケツの中に収まることになった。
ふさがっていた両手が自由になった瞬と その幼馴染と 謎の闖入者は、場所を水飲み場の横のブランコに移動して、改めて親交を深めることにしたのである。

「で、君の名前は」
瞬が椅子代わりに腰をおろしたブランコの吊りチェーンに手をかけて、氷河は星矢ではなく瞬に尋ねた。
「瞬だよ。こっちは星矢」

“ご主人様”でありながら、下僕に華麗に無視されてしまった星矢は、瞬に対する氷河の馴れ馴れしさが非常に不愉快だった。
が、今はそんなことより、この図々しい男の正体を突きとめることこそが最優先課題である。
彼は、あの青銅の壺の蓋を封じていた紙片をひらつかせて、氷河を問い質した。

「それで、おまえは何者なんだよ? これが外れたのは関係ないのか? フツー、封印つきで壺に閉じ込められてるのって、悪魔とか悪霊とかの悪者だろ」
「ユダヤのソロモン王が72柱の悪魔を封印したなんて伝説もあるね。あれは真鍮の壺だったと思うけど」

氷河は質問者である星矢をどこまでも無視し、瞬に向かってその質問への答えを告げた。
「瞬は可愛いだけでなく、物知りだな。しかし、俺はソロモンの悪魔などではなく、ただの人間だ。その紙はソロモン王ではなくアテナの封印だ」
「アテナの封印?」

アテナといえば、ギリシャ神話の知恵と戦いの女神の名である。
そんな神に封じ込められるとは、いったいこの男は何をしでかしたのか――。
氷河に対する星矢の不審の念はますます強まることになった。

いずれにしても――身体を極限まで小さくしていたのだとしても、氷河はあの壺の中に収まりきる体格を有してはいない。
彼が本当にあの壺の中から現われたのだとしたら、これは超自然の出来事である。
納得できなくても、現実がこうなのだから認めるしかない。
となれば、星矢が今すべきことは、この現実を受け入れ、事態を丸く収めることだった。
すなわち、氷河の義務を遂行させて彼を元の場所に戻すこと――である。

「おまえ、俺の命令を何でもきくって話だったけど、どんなことでもできるのか?」
「人間にできることは」
「人間にできること? おまえ、魔法でぱぱぱ〜っと ここにご馳走を出せたりするわけじゃねーの?」
「俺は、アテナに呪いをかけられて壺に閉じ込められただけの、ただの人間だ。魔法など使えん」

氷河の説明を聞いた星矢は、いかにも不満そうに口をとがらせた。
当然である。
魔法も使えず、無礼で図体がでかいだけの男など、置き場所をとるだけの粗大ゴミと大した違いがないではないか。
「魔法が使えないんじゃ、何にもならないじゃん。人間にできることって、つまり、おまえに頼らなくても、俺が自分でできることだろ」

星矢のぼやきを聞いた氷河が、初めて視線をまともに星矢の上に据える。
氷河は、少し星矢を見直したように、浅く頷いた。
「それを他人にやらせたがる怠け者もいる」
少なくとも、今現在の彼の“ご主人様”は、そんな怠け者ではないらしい。
氷河は、その事実に幾分 気を良くしたようだった。

「いずれにしても俺は、俺を呼び出したご主人様に絶対服従だから、ご主人様の命じたことをやり遂げるまで、力の限り働かなければならない。そうしないと、壺の中には戻れないことになっている」
「戻れなくなるのなら、そっちの方がいいんじゃないの?」

瞬に問われた氷河は、だが、微かに首を横に振った。
「呪いが解けたわけではないから、俺はいつかは壺の中に戻らなければならない。俺を壺の中から呼び出した者が死ねば、その命令は無効になって、俺はまた壺の中だ。結局俺はアテナの呪いから逃れることはできない」

「なんか大変だなぁ。その呪いっていつ かけられたんだ? なんでそんなことになったわけ? アテナっていい神様なんだと思ってたけど、結構傍迷惑な奴なんだな」
好意を抱かれているということは、存外に空気で伝わるものである。
氷河が自分を“無いもの”として扱うのをやめたことを感じ取った星矢は――星矢の中からもまた、氷河を粗大ゴミと思う気持ちが薄れていった。

「3000年ほど前かな。いや、もう4000年くらい経ったかもしれない。アカイア人がペロポネソス半島からエーゲ海に進出してきて、クレタ文明やミケーネ文明を滅ぼした頃だ」
してみると、この青銅の壺は30〜40世紀という長い時間をかけて、地中海から この極東の島国まで流れ着いたことになる。
星矢は思わず、感嘆の呻き声を洩らした。

「氷河はギリシャ人なの? 氷河って、日本語の名前だよね?」
「呼びにくいというんで、200年前に俺を呼び出した男がつけた名前だ。リンゾウとかいう名前の幕府の下役人だったが」
「どうして、こんな壺に閉じ込められるようなことに……」
そう尋ねる瞬の瞳には、同情の色がたたえられている。

瞬同様、星矢の中にも、今は、先ほどまで氷河に対して抱いていた不信感と同程度の同情心が生まれつつあった。
4000年もの長い時間を、一つの壺に縛りつけられて生きてきた男――確かにその状況は同情するに値する悲惨なものである。
もっとも、星矢の同情心は、氷河が壺に囚われの身となった理由を知った途端、あっさり霧散してしまったのだが。






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