氷河は、自分がなぜそんなことをしたのか、瞬を救い出したあとも得心できずにいた。

エリスたちが自宅とは別に、遊びの根城として使っているマンションの一室に氷河が乗り込んでいった時、瞬は、
「私たちはあなたの好みじゃない? 私たち、おいしいお弁当を作ってくれる可愛いツバメちゃんが欲しいな〜って、ずっと思ってたのよ」
と言いながら、わざとらしい微笑を浮かべている3人の上級生に、長椅子に押し倒されかけていた。

「おまえたち、冗談と言っていなかったか」
氷河の青い瞳に睨みつけられた彼の婚約者たちが、すぐに彼女たち独特の罪のない笑顔を作り、瞬の側から離れる。
「もちろん冗談よ」
そう言う彼女たちを、氷河はそれ以上責めることはせず、瞬を悪の巣窟から連れ出したのだが、肝心の瞬は、自分が氷河に“救い出された”ことに全く気付いていないようだった。

「あの、僕、氷河がお弁当のお礼をしたがってるって言われて……」
この悪事に自分の名が使われたことよりも、そんなことをしてやる義理も義務もないのに、柄にもない義侠心を出してしまった自分自身に、氷河は苛立っていた。
危地からは救い出してやったのだし、そのまま放り出してしまえばいいものを、危機管理意識皆無の世間知らずを落ち着かせるために、ティーラウンジに連れ込むなどという酔狂なことをしている自分が、ますますもって理解し難い。

肝心の世間知らずはといえば、自分の向かいの席に座っている正義の味方に、問われたわけでもないのに事情を説明してくる。
事の次第がまるでわかっていないらしい世間知らずの経緯説明など、氷河は聞く気にもなれなかった。

「もう少し危機感を持て。女に押し倒されるなんて情けない。殴っていいんだ、ああいう手合いは」
「押し倒さ――? あの……?」
氷河が何を言っているのかが、瞬には理解できなかったのである。
瞬の“常識”では、それはありえないことだった。

「た……確かにちょっとびっくりしたけど、でもまさか、そんな……あの――だとしても、まさか、女性に腕力で対抗するわけには……」
「あいつらは、“女性”なんて上品なものじゃない。ケダモノだ。遠慮は無用」
「…………」
吐き出すような氷河のその口調で、瞬は自分が彼に責められていることを自覚した。
そして、彼のその言葉が色々な意味で切なく感じられて、睫毛を伏せた。

「あの人たちを好きなんじゃないんですか? 婚約者だって聞きました」
「あんな非常識なバケモノたちを好きになる男がいたとしたら、そいつはマゾヒストだ」
まるで蛇蝎を語るがごとく突き放した氷河のその声音と態度に、瞬は驚き戸惑った。
彼が『バケモノ』と評する相手は、いつも彼と行動を共にしている、いわば仲間、ではないか。

この期に及んでも、彼女たちをそこまで言われるほど悪い人間だと思うことができずにいた瞬には、氷河の唇から飛び出てくる あまり美しくない言葉がひどくつらいものに感じられたのである。
かといって反論もならず――瞬は結局、氷河の前で沈黙した。
そんな瞬を見て、氷河が嘆息する。

「おまえこそ、婚約者が3人もいるような男をなぜ――」
「え……?」
好きになったのかと訊こうとした氷河は、だが、自分が瞬にそんなことを一度も言われていない事実を思い出し、瞬に投げかけようとした言葉を飲み込んだ。

口をつぐんでしまった氷河を見上げ、瞬が切なげな微笑を浮かべる。
「……なぜなのか、僕にもわからない」
そう小さく告げることで、瞬は、氷河が飲み込んだ言葉を肯定した。
では、やはりそういうことらしい。
言葉を交したこともなく、婚約者が3人もいる上に無愛想で無関心無感動無責任な同性おとこに、この世間知らずは好意を抱いているのだ。

「あ……あの、僕、三ヶ月前までエチオピアにいたんです。あの国では、飲み終わった後のカップをふせて、流れたコーヒーの模様で占いをする習慣があるの。6年もあっちにいて、帰国が不安で、帰りたくないって駄々をこねてたら、あっちで僕の世話をしてくれていたメイド頭の女性が、僕のこと占ってくれたんだ――くれたんです」

『3回占って3回とも同じ結果が出た』と、その女性は瞬に告げたのだそうだった。
『故国に帰ったら、あなたは大切な人と再会する。それはあなたの運命の人で、その人に出会うことであなたは幸せになれる。だから帰りなさい』――と。

「彼女にそう言われたせいもあって、僕は両親と一緒に帰国したんです。その帰りの飛行機の中で、彼女は僕のためにわざとそう言ってくれたのかもしれないってことに気付いた。エチオピアは貧しい国だから……きっと日本に帰る方が僕のためになるって考えて、彼女はそう言ってくれたんだろう……って。彼女自身はあの国から出られないのに」

「…………」
それがただの幸運なのか、あるいはその人柄のせいなのか、この世間知らずな少年の周囲には、他人への思いやりを知る人間ばかりが存在していたらしい。
瞬の瞳が澄んでいるのも当然のことと、氷河は微かな苛立ちと共に、その事実を理解した。

「でも、帰国して、この学校に編入させてもらったら、初登校の日に氷河に会えて、もしかしたら、あの占いがほんとのことになったのかもしれないって思えてきて――」
「俺とじゃ、“再会”にならないだろう」
氷河が何気なく告げた言葉で、少し明るくなりかけていた瞬の瞳が翳りを帯びる。

「……うん。そうだよね……」
寂しそうに肩を落とし、俯いて、瞬はそれきり口をきかなかった。






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