「でもさ、それっていいことだろ。氷河があの頃のこと忘れてるってことは」
「うん……。わかってる。あの頃のこと、思い出すこともないくらい、今の氷河は今の世界で生きることに一生懸命になれてるんだよね」

星矢の言うことはわかるのである。
いつまでも過去の思い出に囚われていることが、良いことであるはずがない。
少なくとも今の氷河に、“それ”は邪魔なものでしかないような気もする。
だが、瞬の中では“それ”は、決して忘れることのできない美しすぎる思い出だったのだ。

「諦めろって」
ごく軽い口調で、だが古い友人を心から気遣ってのこととわかる言葉を、星矢が瞬に告げる。
星矢の思いやりはわかりすぎるほどにわかっていたのだが――瞬は大切な友人にすぐに頷き返すことができなかった。

「おまえ、意外と諦め悪いのな。そのコーヒー占いとか、本気で信じてんの?」
「……信じたいだけなのかもしれない。この学校に転入してきて、氷河に出会って、これが運命なんだって、僕、勝手に思い込んじゃっただけなのかも――」

「俺と再会した時には、そう思わなかったわけ? 友だち甲斐がねぇな〜」
「星矢は、僕のままごとに付き合ってくれなかったじゃない。氷河だけだったんだ。僕の、あの遊びに付き合ってくれたのは……」
だから、あの頃から、瞬にとって氷河は特別な存在だったのだ。
氷河がなぜ そんな他愛もない戯れに付き合ってくれたのかはわからない。
それでも、だからこそ、彼は特別なのだ。

「僕が忘れればいいんだよね……。氷河とままごとしたことも、それが楽しくて、寂しいのを忘れていられたことも、氷河に いつか本物のご飯作ってくれって言われたことも――」
言葉で『忘れる』と言うだけなら簡単である。
だが、人の記憶は、その心と同じで、意思の力で制御することはできない。
瞬の涙腺も同様だった。

「瞬、泣くなよ〜っ」
幼い頃から全く変わっていない友人の涙を見せられて、星矢が悲鳴をあげる。
あやして泣きやんでくれる相手だったら、星矢はいくらでも道化てみせるところだったのだが、瞬の涙はそんなことでは止まらないことを、星矢はよく知っていた。

そんな徒労をするくらいなら、瞬の涙を止める術を心得ている男を 無理にでもこの場に連れてくる方が手っ取り早い。
実際 星矢はそうしようとしたのである。
だが、星矢は、その決意を行動に移す前に、そうする必要がなくなったことに気付いた。

ほっと安堵の胸を撫で下ろし、
「んじゃ、あと頼むわ」
それだけ言って、星矢は、泣き虫の旧友を氷河の手に委ねたのだった。






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