毎日 明るい顔をして朝早くに城戸邸を出た瞬が、夕刻には、更に明るい笑顔で帰ってくる――。 氷河は、当然のことながら、瞬にそういう表情をさせているものが自分以外の誰かであり、その誰かは城戸邸の外にいる人間だと判断せざるを得ない状況に立たされていた。 そして、それは、彼にとって非常に不愉快なことだったのである。 不愉快というよりも――氷河は不安だったのだ。 あの夜以来、氷河は、二度目の同衾どころか、瞬と会話らしい会話も交せずにいたのだから。 瞬の笑顔、瞬の連日の外出、何もかもが、氷河の不安の種だった。 人間の持つ感情の中で、“不安”という心理ほど厄介なものはない。 それは、人の心をじわじわと内側から蝕んでいく。 恐怖とは異なり原因のはっきりしないそれは、原因が明確でないが故に取り除くことが難しく、静かに無限に増殖していくのである。 氷河がその不安の原因を突きとめ、取り除こうとしたのは、考えようによっては、彼の精神が真っ当な活動を為していることの証でもあったろう。 ストーカーよろしく 城戸邸を出た瞬のあとをつけ、思いがけない場所で肉体労働に従事する瞬の姿を認めた時にも、瞬の行動の意味は理解できないながら、氷河の精神はまだ冷静さを保っていた。 ムサい男たちに囲まれてにこにこしている瞬の姿を眺めていることは不愉快の極みだったが、瞬の周りにいる男たちが自分より二段も三段も劣る むさ苦しい男たちだということが、むしろ氷河に自信と余裕を抱かせていたのである。 その氷河が冷静でいられなくなったのは、どうやら瞬の職場(?)の責任者らしき壮年の男が、建設現場の端にあるブレハプ製の臨時事務所の裏手に瞬を呼びつけて、 「これは真面目な話なんだが、嬢ちゃん、ウチの息子の嫁に来る気はないか? その……今の男とは手を切って」 と真顔で語るのを聞いた時だった。 瞬の『今の男』というのは当然、瞬の戦闘仲間である金髪碧眼の男のことに違いない。 その男と手を切れと、 「瞬ーっっ !! 」 「氷河……?」 「おまえ、いったいこんなところで何をしているんだっ!」 突然その場に乱入してきた氷河に、瞬はもちろん驚いた。 その瞬の横に立つ土方氏(仮名)は――瞬よりもこの事態に仰天していいはずの現場責任者は――だが、まるで驚くことをしなかった。 代わりに彼は、金髪の闖入者の胸倉を掴みあげ、今にも殴りかからんばかりの勢いで氷河を怒鳴りつけたのである。 「おまえかーっっ! 嬢ちゃんにこんなきつい現場の仕事を無理強いして、金を貢がせてるヒモ野郎はーっ !! 」 「へ……?」 実はそういうことになっていた――のである、土方氏(仮名)の脳内では。 瞬がこの過酷な労働に従事している理由が、親の借金でないのなら、他には、『悪い男に捕まって貢がされている』というパターンしか、彼には思いつかなかったのである。 それが昭和中期テイストというものなのだ。 土方氏(仮名)は、自らの正義を信じていた――氷河の邪悪を確信していた。 彼は、薄幸の美少女を悪の手から救ってやらなければならないという義務感と義侠心にも燃えていた。 そして、彼と志を同じくする正義の闘士たちが、グラードマンション十二番館建設現場には大勢いたのである。 「おいっ、みんなーっ! 嬢ちゃんについてる悪い虫が図々しく姿を現しやがったぞーっっ !! 」 「なんだとー!」 土方氏(仮名)がグラードマンション十二番館建設現場に胴間声を響かせるや否や、わらわらわらと その場に正義の闘士たちが駆けつけてくる。 その中にはハンマーや鉄棒を握りしめた者も多数いて、彼等は土方氏(仮名)の指が示す先にいる金髪男に問答無用でとびかかってきた。 「な……なんなんだ、貴様等は!」 氷河には、怒りに目を血走らせている彼等が何者なのか皆目わからなかったが、瞬の仕事仲間たちは、見てくれだけはいい優男がどれほどの悪党なのかを十二分に承知していた。 彼等は、彼等のボスの昭和中期テイストにすっかり感化されていたのである。 「こいつが瞬ちゃんをー!」 「女に働かせて、その金で自分は放蕩三昧たぁ、男の風上にも置けねーせこい野郎だ!」 「色男ぶりやがって、モノホンの金髪ならそれでいいと思ってやがるのか、こいつ!」 「ガイジンさんなら何しても許されるってわけじゃねーんだよ、わかってんのか、こらぁ!」 口々に(氷河には理解不能なことを)叫んで飛びかかってくる一般人に、だが氷河は反撃するわけにはいかなかったのである。 いくら半端でない殺気を帯びている者たちであったとしても、彼等は地上の平和と安寧を乱すアテナの敵ではないのだ。 窮地に立たされた氷河がとった対応策は、これまで仲間たちに散々馬鹿にされてきたシベリア仕込みの足封じ技(の応用編)――だった。 氷河は、グラードマンション十二番館建設現場の地面全体と、そこに接しているもの――すなわち、100人に及ぶ土木建築業従事者たちの靴――を凍りつかせることによって、彼等の自由を奪ったのである。 グラードマンション十二番館建設現場に突如出現したアイススケートリンクの上で、彼等は一歩も動くことができなくなってしまったのだった。 その場で自由を失わずに済んだのは、足封じ技を仕掛けた当人と、一度見た技は通用しない氷河の戦友だけだった。 瞬は、氷河がその技を仕掛けようとしていることをいち早く察知し、プレハブ製の臨時事務所の屋根にジャンプして、氷河の技の被害者になることを(ちゃっかり)避けることができたのである。 「氷河、何てことするのっ!」 「おまえこそ、こんなところで何をしているんだっ!」 「何って、お仕事に決まってるでしょ! 見てわからないの!」 臨時のプレハブ事務所の屋根から氷河の前に飛び降りてきた瞬が、氷河を叱責する。 だが、氷河は無論、『見てわからない』から、瞬に問い質したのである。 アテナの聖闘士が、正義のために使うべき力をマンション建築に費やす理由が、氷河にわかろうはずもない。 「何のために!」 「何のため……って……」 重ねて問われた瞬が、今度は返答に窮する。 まさか46回/年という“平均”に従うため――などという真実を、氷河に知らせるわけにはいかないではないか。 いかないと、瞬は思ったのである。 だが、氷河は、こんなひどいことをしておきながら、自分に非は全くないと言わんばかりの顔で瞬を睨みつけている。 そして、瞬は、これまで散々氷河に無視され続けたことですっかり傷心し、そのため心弱くもなっていた。 氷河の険しい視線にさらされているうちに、瞬はふいに泣きたくなってしまったのである。 そして、結局瞬は、その衝動に耐え切れずその場で泣き出してしまったのだった。 「氷河に……氷河に嫌われたくなかったから……」 「なに……?」 「僕、氷河に嫌われたくなかったんだよっ!」 瞬の涙ながらの訴えの意味するところが、氷河にはもちろん全く理解できなかった。 |