そして、冥界での闘い。
ハーデスに支配された瞬に対峙したのは瞬の兄だった。
瞬のために苦しみ、悩み、殺そうとして そうすることができず、冥界の王の前に倒れ伏したのは氷河ではなかった。

「瞬のために闘うこと、苦しむこと、傷付くこと、全部俺がしたかったことだ!」
生きている者たちの世界に戻った途端、氷河は怒りを炸裂させた。
「なのに、いつもいつも、俺のしたいことを おまえら兄弟がしてしまう。貴様が横から奪い取っていくんだ!」
大きな闘いを何とか死なずに終えたことを喜ぶこともせず、氷河は憎々しげに一輝を怒鳴りつけた。
言い掛かりとしか思えないその言葉に、一輝はすっかり呆れ果ててしまったのである。

一輝にとっても、氷河は、子供の頃から“訳のわからない仲間”だった。
その訳のわからなさが、闘いを一つ重ねるごとに大きくなっていく。

「兄さん、僕が……」
今はすべてを理解した瞬が、そんな兄に目で合図を送り、氷河と対峙する。
瞬の兄には理解し難い怒りを全身にみなぎらせている氷河をソファに座らせ、自らはそれより一段低いサイドチェアーに腰を下ろして、瞬はなだめるような口調で氷河に尋ねた。

「氷河。氷河は僕が好き?」
「ああ」
「信じてくれてる?」
「もちろん」
「僕もだよ。なのに氷河は何を証明したいのか……って、僕はずっと不思議だった」

そう、瞬はずっとそれが不思議だったのだ。
氷河に繰り返し告げられる『おまえが好きだ』という言葉の意味するところが、瞬にはまるで理解できなかった。
――今ではもう、わかってしまっていたが。
そして、それは、瞬にとってひどく悲しく切ない“理解”だったが。

「氷河はほんとは僕を好きなことを証明したいんじゃないんだよ。そんな必要ないでしょ。僕たちは、これまでも、これからも、ずっと一緒に同じ闘いを闘っていく仲間で、それは証明なんかを必要としない絆だもの」
なぜそれを悲しく切ないと感じるのか――。
おそらくそれは、氷河があまりにも悲しく切ないことをしているせいなのだと瞬は思っていた。

「氷河は――氷河は、子供の頃は、僕をマーマの代わりにしてた」
「なに?」
氷河にはそれは思いがけない言葉だったのだろう。
彼は、瞬の言葉に驚いたように――その青い瞳を見開き、瞬の瞳を見詰め返してきた。

「氷河は氷河のお母さんをとっても好きだったんでしょう? でも、そのことを伝える前に――“証明”する前に、氷河のお母さんは死んでしまった」
すべてはそこから始まったのだ。
瞬が氷河に出会い、氷河が瞬に出会うずっと以前の、その悲しい事故から。

「十二宮ではカミュ、ポセイドン戦ではアイザック。氷河はいつも大切な人たちと闘うしかなくて、氷河が本当は彼らをとても大切に思ってることを彼等に伝え損なって、だから氷河は、その分を、生きて側にいる僕に“証明”することで穴埋めしようとしたんだ。僕はいつだって、氷河が氷河の心を伝え損なった人たちの身代わりだった」

瞬の言葉を、氷河は一笑に付そうとしたのである。
実際、彼は笑おうとした。
その笑いが、だが、不自然に強張る。
「俺は――」

そうだったのかもしれない――と、氷河は思ったのである。
自分にとってどれほど大切な存在だったのかを伝える前に、彼等は皆、氷河の手の届かないところに行ってしまった。
その思いを伝えることはもうできない。
確かに、その後悔はいつも氷河の胸の深い場所に、重いおりのように存在していた。

「でもね、心配しなくてもいいの。氷河は神様を信じてる? ギリシャの神様とは違う神様だよ。唯一の――すべての人を愛し、人が善であることを期待してくれている神様」
「…………」
氷河は、すぐには首肯しなかった。
瞬が何を言おうとしているのかがわからなかったせいもあるが、ここで『信じている』と告げたら、瞬に笑われてしまうのではないかという妙な恐れが、彼に頷くことをさせなかったのである。
そのあたりも心得ているらしく、瞬は氷河の答えを待つようなことはしなかった。

「マーマの信じてた神様をなら信じてるんでしょ? 神様なんて、そんな、本当にいるのかどうか証明することのできないものを」
それは――神という名の絶対的存在は――、いないと思えばいなくても平気なものである。
実際、かのニーチェが『神は死んだ』と宣言する以前から、神の存在を信じない人間はこの世界に数多くいたことだろう。
無論、強い情熱をもって その存在を信じている者たちも、この地上には十億単位で存在するが。

「証明できないものを、人に信じさせるのは愛の力だけだよ。氷河の場合は、神様への愛じゃなく、神様を信じていたマーマへの愛みたいだけど」
そう言って瞬は小さく笑ったが、それは氷河が懸念したような嘲りやからかいの笑いではなく――ひどく寂しげな笑みだった。

「でも、その“愛”も、神様と同じで証明できない。実践はできるかもしれないけど――自分が愛してる人に優しくしたって、その人のために命を懸けたって、それは証明したことにはならない。どんなに美しい行為でも、真実の愛から出たように見える行為でも、もしかしたらそれは本当は義務感や功名心から出た行為かもしれない。それは他人にはわからないし、もしかしたら、その行為をした人自身だって、自分を動かしている力を愛と錯覚してるだけなのかもしれないんだから」

何を、瞬は言っているのかと、氷河は疑ったのである。
瞬が口にする言葉として、これほどふさわしくない言葉もない。
「神様の存在を証明できないように、愛情だの好意だの良心だの、そんなふうなものは決してその存在を証明できないものなんだ。命を懸けたって、証明できない」

だが、瞬はそれを信じているはずだった。
人と人とを繋ぐ愛、良心、善意――瞬が叶えたいと望む理想と夢はそれらのものだけでできていると言っても過言ではないもののはずである。

「神も愛もその存在を証明できないもの。でも多分、そんなふうに証明できないものを信じることを、愛だけが可能にするんだ」
その存在を証明することのできない“愛”というものだけが。
瞬は、どこか心許なげな表情で、だが、きっぱりとそう言った。






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