瞬と同じものになってしまうのは切ない。
瞬に『氷河』と呼ばれている男のように、瞬とは別の存在として瞬の前に存在し、自分に対して何らかの感情を抱かせてみたい。
無力な人間をなら、根本的に憎み嫌うことをしないこの清らかな魂は、絶対の力を持つ冥界の王にどういう感情を抱くのか。
ハーデスは、それを知りたいと思ったのである。
だが、大抵の人間が持つ醜さと弱さを思い出したハーデスは、自分の好奇心を無理に抑えつけた。

清らかなものを清らかなままでおくためには神の支配が必須である。
瞬も人間なのだから、いつまでも清らかなだけではいられないだろう。
神が力を及ぼさなければ、瞬もいつかは その身に汚れを同居させることを始めるに違いないのだ。
そんな惜しいことができるだろうか。

機会は今しかない。
汚れを知る前、美しい恋に夢中で幸福の絶頂にあり、世界のすべてを肯定的に受け入れ、人生の中で最も輝いている時。
今この時にその身を支配して、瞬が愛するこの世界を消し去る――これ以上世界が汚れてしまう前に。
それは瞬のためにも良いことのはずだった。
彼が愛する世界を、彼が愛しているうちに消し去ってやることは。

問題はむしろ、瞬が恋している男をどうするかの方だった。
その男を消し去ってしまったら、瞬は絶望するだろうか。
絶望し自暴自棄になってしまった人間がいかに扱いにくいものであるかを、ハーデスはよく知っていた。
大切なものを失い絶望してしまった人間には、『死』という脅迫さえ通じない。

無論、ハーデスは、瞬を その精神と心まで完全に支配するつもりだったので、氷河という存在を無視し捨て置くこともできた。
だが氷河は、瞬にあの驚くべき錬金術を実行させることのできる存在で、安易に消してしまうのは惜しいような気もしたのである。

瞬の仲間たちも――宿敵アテナでさえも――瞬のためには、その存在の継続を許しておく方がいいのではないかとハーデスは思った。
その方が瞬が幸福でいられるだろうから。

そんなことを考えている自分自身に気付き、ハーデスは薄闇の中で苦笑した。
『これではまるで、人間たちがうつつを抜かす恋のようではないか』
と。
そういえば、以前は、世界のすべてを消し去って自分だけを見詰める瞬というものを願っていた氷河は、瞬を手に入れたことで渇望が満たされたのか、あの激しかった独占欲を今ではすっかり忘れ去っている。

恋する者に世界はいらないと言わんばかりだった男が、以前は単なるお題目としてでも唱えることもなかった『地上の平和』などという言葉を、平然と口の端にのぼらせるようになっていた――まるで瞬のように。
己れの感情をすべてに優先させていたあの男が、である。
もちろん、彼が口にする『地上』に住む者の筆頭は、瞬であり 彼の仲間たちであったろうが、それでもハーデスは、氷河の上に起こった変化と似た変化が自身の上にも起こっているような気がしてならなかった。
『その方が瞬が幸福でいられるだろうから』とは、瞬を支配しようとしている神の考えることだろうか。

瞬はいずれ我が身となるのだから、自分がその幸福を望むのは当然のことであり、その点で自分は氷河とは違う。
まるで自身に言い訳をするようにそう言い聞かせて、ハーデスは己れの自尊心を納得させた。


いずれにしても。
この世界を滅ぼすことには問題がないが、瞬の仲間たちまでを抹消してしまうのは、あまり賢いやり方ではないような気がした。
冥界の王が必要としているのは、生き生きと生気に輝き、その上で清らかな瞬なのであって、抜け殻のような入れ物ではないのだ。
器だけが必要なのなら、瞬より美しい造作を有する人間はいくらでもいる。

ハーデスは迷っていた。
神である身が、自嘲しつつも迷っていた。
だが、時は既にその瞬間に向かって動き出している。
瞬の幸福の要素たちの処理を決めかねたまま、ハーデスは瞬の身体を我が物にした。






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