もしかしたら全ては沙織の冗談だったのかもしれない。
一抹の期待を胸に、紫龍は沙織に確認を入れた。
「沙織さん、この二人は本当に自分のいちばん大切なものを忘れているんですか?」
「もちろんよ。何なら、あなた方もあの花の香りを嗅いでみる? 星矢は食事をとることを忘れて餓死すること必至、紫龍なら老師の教えを忘れて無知蒙昧の輩にでもなりさがるのかしら」

沙織が彼女の聖闘士たちをどう思っているのか――については一言物言いをつけたいところだったのだが、星矢と紫龍はかろうじてそうすることを思いとどまった。
今は そんなことにかかずらっていていい時ではない。
沙織がここまで自信と確信に満ちているのだ。
二人が二人にとって最も大切なことを忘れているのは確からしい。
だが、氷河は相変わらず瞬を見ているし、瞬も氷河を見詰めている――。

「だったら氷河と瞬はいったい何を忘れたんだよ……? 俺にはまるでわかんねーぞ」
言葉だけではなく、律儀にちゃんと両手をあげて星矢がぼやく。
ふいに紫龍が、とても――とても嫌そうな顔になった。
「もしかして……いや、しかし、まさか……」
「何だよ?」
「あ、いや……」

お茶を濁そうとする紫龍に、星矢が疑わしげな目を向ける。
そして、肝心かなめの氷河と瞬はといえば、やはりいつもと変わった様子はない。
「星矢も紫龍も変なの」
「そんな わからん奴等は放っておけ。瞬、寝るぞ」
「あ……うん」
いつもと変わった様子のない二人は、そんなふうに――いつもと同じように――困惑する仲間たちをその場に残し、さっさとラウンジを出ていってしまった。


「――違ったか」
氷河のあとに従った瞬がラウンジのドアを閉じると、紫龍はほっと安堵の息を漏らした。
途端に星矢が、1分前の紫龍以上に嫌そうな顔を作る。
「紫龍、おまえ、あの二人がナニを忘れたと思ったわけ?」
「え? いや、まあ、その何だ。ははははは……」
紫龍に向けられていた星矢の疑惑の眼差しは、今はむしろ軽蔑のそれに変わっていた。

「んでもさ、氷河と瞬のいちばん大切なものがお互いじゃなくて、××のことでもないとすると、案外あの二人の本命は他にいるんだったりして。あの二人は俗に言う仮面夫婦とかで」
「ゲイを隠すためにノーマルを装うというのはよく聞く話だが、あの二人にそんな小細工は無用のものだろう。だいいち、本当に“振り”なのなら、あそこまで夜のお勤めに励むこともあるまい」
「じゃあ、割り切ったセフレ関係」
「おまえ、聖闘士星矢パロで使っていい単語じゃないぞ、それは」
「なら、あの二人はいったい何を忘れたんだよ!」
現状把握ができずにいる星矢の声が、少し苛立たしげなものになる。

いずれにしても、氷河が瞬を、瞬が氷河を忘れてはいないのは明白な事実だった。
忘れるどころか――星矢と紫龍はその夜、いつもより盛大な二人の愛の営みの気配に、大いに辟易することになってしまったのである。

聖闘士のかもしだす小宇宙はよほど強大なものでない限り 意識して遮断することができるのだが、その夜、星矢と紫龍は 氷河と瞬の愛の(?)小宇宙を完全に遮断しきることができなかったのである。
二人を心配した彼等の仲間が 二人の様子を窺おうとするまでもなく、普段に倍する強烈な小宇宙が向こうの方から星矢たちの部屋になだれ込んできたのだ。

その夜から、二人の関係に何らかの変化が生じたのは事実だった。
言動は以前と全く変わらないのに、二人は妙にぎすぎすとした雰囲気をその周辺に漂わせ始め、その不自然な空気は日ごとに密度を増していった。






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