星矢は決して非常事態に弱いわけではなかった。
むしろ、事件やバトルの勃発を知ると、彼の胸は期待のために大いに高鳴る。
日常のありがたみも知っていたが、星矢は、平和で穏やかなだけの日が長く続くと、時折大声で叫び出したくなる衝動を覚えることさえあった。
非常事態・異常事態――すなわち、トラブル――は、決して嫌いではないのだ。
それが、目に見えてはっきりトラブルとわかるトラブルでさえあれば。

だが、今 星矢の前に横たわるトラブル(らしきもの)は、一見しても二見三見しても日常そのもの。平時と異なるところが存在していない。
それでいながら、不自然でぎこちない空気。
要するに、何が起きているのかがはっきりしない不穏・不自然。
星矢にはその空気がひどく居心地が悪く感じられ、気持ちが落ち着かなかった。

だから星矢は瞬に尋ねてみたのである。
平時なのか戦時中なのか判別のつかない どっちつかずで宙ぶらりんな状況に耐えかねて。
「なあ、瞬。おまえ、最近何か忘れたことはないか?」
ラウンジのソファに腰掛けて風景画集を眺めていた瞬は、突然星矢に髪を引っ張られて、僅かに右に頭を傾けた。

「なに言ってるの?」
「よく考えてみろよ。絶対何か忘れてるって」
瞬が何かを忘れてしまったせいで発生した不穏なら、瞬にそれを思い出させればいい――思い出させなければならない。
星矢は瞬に食い下がった。

だが、そんな星矢に反応を示したのは、瞬ではなく氷河の方だった。
氷河は、彼にしては異様に冷ややかな口調で、
「瞬にまとわりつくな」
と、星矢に釘を刺してきたのである。
無論、そんなことにたじろぐ星矢ではない。
彼は瞬の髪を一房 掴んだまま、今度は氷河に向き直った。
「氷河、おまえもさー。何か大事なこと忘れて――」
「その手を離せと言っている!」

決して声を荒げているわけではないのに、その憤りが尋常のものでないことがわかる声。
氷河が何に腹を立てているのかが理解できなくて、星矢はきょとんとした顔になった。
「氷河……おまえ、腹でもいてぇの?」
星矢は120パーセント真面目に氷河に尋ねたのだが、氷河は星矢の憂慮を揶揄の一種と受け取ったらしい。
彼は眉を吊りあげ、次いで こめかみを引きつらせると、本気で憂い顔をしている星矢の上から 振り払うように視線を逸らし、そのまま無言でラウンジを出ていった。
瞬が、そんな氷河を切なげな目で見送る。
そして星矢は、氷河の腹立ちの訳が まるでわからなかったのである。
星矢はあっけにとられた。

「なんだよ、あれ」
「これは……」
それまで氷河の退室の様を無言で観察していた紫龍が、おもむろに眉をひそめる。
それから彼は、今ひとつ確信が持てていない口調で低く呟いた。
「似たようなシーンを、以前見たことがあるような気がするんだが……」
「へ?」
そう言われてみると、星矢にもやはり、以前こういうシチュエーションに遭遇した記憶があった。

「そーいえば……」
どこか沈んだ様子の瞬を横目に見ながら 自身の忘れものを思い出そうとした星矢は、そして思い出したのである。
氷河と瞬がそうい・・・う仲・・になる以前、瞬に近付く者に――特に気安く近付く星矢に――異様に攻撃的な態度を隠さずにいた氷河の態度を。
今の氷河は、あの頃の氷河に酷似していた。

あの頃の氷河と今の氷河とで異なる点は、今の氷河の方があの頃の氷河よりはるかに 冷ややかに殺気だっていること――くらいである。
瞬とそういう仲になってからの氷河は、瞬に近付く者に焼きもちを焼くことはあるにしても、それはもう少し陽質のもので、どこかに優越感のようなものが含まれていたのだ。
その優越感が、今の氷河からはかけらほどにも感じ取ることができない。

氷河と瞬が何かを忘れてしまっているのは確かだった。
だからこそ今の氷河は陰湿に攻撃的で、瞬は氷河に対してどこか弱腰なのだ。

「これはもしかしたら――」
紫龍がふと何事かを思いついたように、顔をあげる。
「もしかしたら、何だ?」
尋ねてくる星矢を手で制し、彼は、数日前から妙に元気のない瞬に声をかけた。
「おまえたち、最近とみにお盛んだな」
「…………」

その手のからかいを受けた時、うっすらと頬を上気させるのが常だった瞬の頬が、今は青白いままである。
瞬は、そして、低く小さな声で、実に思いがけない言葉を――星矢にしてみれば――その唇から洩らした。
「別に……好きであんなことしてるわけじゃないよ、僕も氷河も。……きっと」
「瞬……?」
「あ……ううん」

驚きのせいで瞳を見開いた星矢に名を呼ばれた瞬が、気弱に瞼を伏せる。
瞬が忘れてしまったもの。
それがいったい何なのか、星矢にはどうしてもわからなかった。






【next】