ヒベルニアの軍は、ガリアの東の海岸から僅かに内陸に入った平原に陣を張っていた。 大陸ではあまり見かけない 大小様々のフェルトの幕屋が5、60ほど作られている。 兵の数は4、5千というところだろう。 港には数隻の中型の帆船があり、略奪した食料や家畜が積み込まれているようだった。 海に隔てられているとはいえ、ヒベルニアとガリアは、風に恵まれれば半日もかからずに行き来できる距離にある隣国同士なのだということを、今更ながらにシュンは思い出した。 「何者だ!」 神の加護が期待できるとはいえ、シュンの敵陣への侵入は大胆に過ぎる計画だった。 従卒や人足たちでごったがえしている小さな幕屋の間を進む分には、目立たない服を着た子供の姿を怪しむ者はいなかったが、陣営の奥にある騎士たち用の幕屋の一つに忍び込もうとした途端、シュンは鎖帷子を身につけた一人の騎士に見咎められ、彼に手首を取り押さえられた。 シュンは思わず息を飲んだのである。 シュンの手首を捕えている男の腕の太さは、シュンの2倍以上ある。 いかにも粗野な様子をしたその男は、シュンのすぐ目の前に剣を突きつけてきた。 理屈が通じるような相手ではなさそうだったし、たとえその騎士が見かけによらない理論家だったとしても、そもそもシュンは彼を説得する理を持ち合わせていなかった。 致し方なく、シュンは、窮地を逃れるたちの最も手っ取り早い手段に及ぶため、チュニックを縛る帯の中に忍ばせておいた短剣に、自由を奪われていない方の手を伸ばさざるを得なくなったのである。 その時、シュンの目の前にあった剣が、チンと小さな音を響かせた。 どうやらヒベルニアの騎士の剣に小石を投げた男がいたらしい。 「王の命令を忘れたか。厳しい処罰付きで、益のない殺生を禁じる指示が出ていただろう」 小石を放ることでその場の緊張を和らげてしまった男が、シュンとヒベルニアの騎士との間に割って入ってくる。 紋章入りの膝下まである紫紺のサーコート、鎖帷子の細工は極限まで細かい。 一目で相当に身分の高い騎士と知れたが、シュンの目は、彼のサーコートの紋章や鎖帷子の細工ではなく、髪それ自体が光を放っているような豪華な金髪に釘づけになっていた。 その金髪の騎士が、シュンの左手にちらりと視線を投げる。 「剣を持っているな。騎士に列せられるには幼すぎるようだが……」 ここで身分が知れてしまったら、ガリアの王弟を手に入れたヒベルニアの野蛮人たちが、シュンの国に対してどんな要求を突きつけるかわかったものではない。 シュンはそれだけは避けなければならなかった。 「た……ただの農民でも、こんな戦さの中、武器のひとつも持たないでいる者はいないでしょう」 「道理だ。が、身なりに似合わない剣だな。こんな宝石で飾り立てた剣をただの農民が持っていたら、今度は盗人の疑いをかけられることになるだけだぞ」 そう言いながら、金髪の男がシュンの手を掴みあげる。 シュンが農民らしくない手を有していることは最初から察していたらしかったが、予測をはるかに超える その手の細さと滑らかさに、彼は面食らったようだった。 初めてまともにシュンの顔を見やり、それから彼は驚いたように呟いた。 「……女?」 「ば……馬鹿にしないでくださいっ!」 今は自由になっていたシュンの右手が、この侮辱に素早く反応する。 抗議の言葉を言い終える前に、シュンの手は金髪の騎士の左頬をぶってしまっていた。 もっとも、シュンの手は、シュンより頭一つ分以上高いところにあるそれを望み通りの強さで打つことができず、シュンの平手打ちはただ敵国の騎士の頬を軽く撫でるだけのものになってしまったが。 金髪の騎士が呆然としたのは、だから、痛みのせいではなく、シュンの手をよけきれなかった自分自身を訝ってのことだったろう。 この出来事に興味を引かれたのか、シュンたちの周囲に集まりかけていた騎士たちが数人、シュンの顔を確かめようとした。 そして彼等は、金髪の騎士の疑念を実に尤もなことと納得したようだった。 「顔に似合わず威勢のいい子だな! 14、5といったところか。気の強い女の子にしか見えん」 「お嬢ちゃん、怒らないでやってくれ。この騎士殿が無敵なのは、女を側に近付けないでいるからなんだ。この失礼も止むにやまれぬ用心だ」 「――女性を側に近付けないから無敵?」 シュンにしてみれば『お嬢ちゃん』などという呼称はこの上ない侮辱だったのだが、それ以上に気になる言葉の意味の追求の方を、シュンは優先した。 敵国の騎士たちが数人、いっせいに頷く。 この場にいる男たちはゲッシュの重みを理解している本当の騎士なのかとシュンが疑うほどに気安い様子で、彼等はシュンの疑念に答えてくれた。 「なにしろ、未だかつてどんな騎士も立てたことがなく、禁忌とまで言われている愛のゲッシュを立てた、最強の騎士殿だからな」 「最強だが大愚」 一人が言うと、シュンの周囲でどっと笑いが起こる。 「ヒョウガの前代未聞のゲッシュの内容が知らされた時には、ヒベルニアの宮廷が上を下への大騒ぎになったんだぞ」 「ヒョウガ……」 敵軍の勢いを変えてしまった騎士の名を、シュンは知らずにいのだが、それでも彼が この男なのだ。シュンがゲッシュを探り出そうとしていた相手は。 「無駄口を叩くのはやめろ。周知のこととは言え、騎士のゲッシュをそう簡単に味方以外の者に漏らすなど、どうかしているぞ、貴様等」 ヒョウガの叱責を受けたヒベルニアの騎士たちが大仰に肩をすくめる。 彼等は、だが、反省の色を全く見せなかった。 「可愛い子なので、つい油断した」 「ガリアの者だとしてもまだほんの子供だし、害はないだろう」 明るく笑って仲間に形ばかりの謝罪を入れてきた騎士たちが、ヒョウガの思案顔を見て顔色を曇らせる。 「侵略者のそしりは甘んじて受けるが、こんな細っこい子供を虐殺するような卑劣な男になるのはごめんだぞ」 彼等は自分たちの無用心に、初めて思い至ったらしい。 そして彼等は、自分達が行なっていることが大義のない侵略だということもわかっているようだった。 「この子の口が堅くて、敵国の騎士のゲッシュをガリアの騎士たちに伝えに行こうとしないのなら、確かに害はないと言えるだろうが、子供でも口はきけるわけだからな」 「…………」 ヒベルニアの騎士たちが、揃って黙り込む。 彼等の目に、シュンは無害で無力な子供に映っていた。 しかし、騎士のゲッシュは重いもの、それは騎士の命と同義であり、かつ 神に捧げられた神聖なものなのだ。 自分たちが、その“重いもの”を、軽率にも力のない子供に負わせてしまったことに、彼等はやっと思い至った。 一様に気まずい顔になったヒベルニアの騎士たちの前で、ヒョウガが更に言葉を重ねる。 「その上、こんな剣を持っているところを見ると、ただの迷い子とは思えないわけだが」 「それは……」 戦さの通り過ぎた戦場で拾ったものだと出まかせを言って、シュンはこの場を逃れようとした。 だが、言おうとした出まかせの代わりにシュンの口をついて出てきたのは、全く別の言葉だった。 |