「愛のゲッシュ……って、あなたは誰も愛さないという誓いを立てたの?」
神に対して――虚言を許さず、ゲッシュの撤回も許されない神に対して――そんな誓いを立てることのできる人間の存在が、シュンには信じられなかった。
だから、シュンは尋ねたのである。

ヒョウガは否定しなかった。
彼のゲッシュは既に秘密ではなくなっていたのだから、彼の沈黙は守秘のためではなかっただろう。
となれば、それは事実。
彼は『決して人を愛さない』というゲッシュを神に捧げ、その見返りとして強力な神の力を分け与えられたのだ。

「故国の窮状を救うためとはいえ、宮廷一の色男がなんと大胆なゲッシュを立てたものかと、他の騎士たちは褒め称えたが、自分の妻や恋人をヒョウガに取られる心配がなくなって、内心で大喜びした者も多かったろうよ」
ヒョウガの横にいた騎士のひとりが からかうように補足説明をしてきたのは、少なくともこの戦さが終わるまでシュンをこの軍陣から外に出さないことが、騎士たちの中での暗黙の了承となったからに違いなかった。

だが、今のシュンにはそんなことはどうでもよかったのである。
人を愛する心は人の意思とは無関係に自然に湧き起こってくるもの、そして、恋はいかずちのように突然降ってくるもの。それは人の力では避けられない。
これほど若く美しい騎士が なぜ好んで自らを死地に追いやるようなことをするのか。
シュンは、自分自身を奇異に思うほど、その事実に衝撃を受けていた。

ヒョウガが同僚のからかいを無視して、シュンに向き直る。
「で、おまえはいったいどこから――」
「あなたは本当に誰も愛さない誓いを立てたの。こんなに綺麗な人なのに」
「へ?」
敵国のまだ首も細い子供にそんな質問を突きつけられることを、ヒョウガは考えてもいなかったらしい。
暫時驚いたように目をみはったヒョウガは、周囲の騎士たちの愉快そうな薄笑いに気付くと、一度大きく咳払いをして、いかにも即席で作った真顔をシュンに向けてきた。

「今ヒベルニアは建国以来の危機に瀕している。余計なことに気を取られている暇はない」
「人を愛する気持ちは突然生まれるものなのではないの !? 自分の意思で制御しきれないものなのでは――」
シュンは、自分がなぜこれほど必死に敵国の騎士にそんなことを訴えているのか、自分でも理解しかねていた。
そんなシュンを見て、ヒョウガが軽い苦笑を浮かべる。

「おまえはそうだったのか? そういう恋をしたことがあるのか?」
「え……?」
ヒョウガに問われたことに、シュンはうろたえた。
「ぼ……僕は知らないけど――そういうものだと聞いています」
知りもしないことを さも知っているように言い募っていた自分に気付き、シュンは正直に肩から力を抜いて答えた。
ヒョウガは相変わらず薄くからかうような笑みを目許に刻んでいる。

「戦場に女はいないし、俺のゲッシュは、この戦さにケリがつくまでは決して破られることはない。俺のゲッシュを知ったガリアの奴等が、俺の許に絶世の美女を送り込んできたとしても、俺は――」
「そのゲッシュはこの戦さが終わるまでのものなの?」
「……おまえ、顔に似合わずしつこいな」
ヒョウガは、さすがに少し呆れた顔になった。
だがシュンは必死だったのである。
彼のゲッシュが、この戦さが終わるまでのものであればいいと、シュンは一縷の希望を抱いていた。
そうでないことは、わかっていたのだが。

ヒョウガがガリアにやってきてからのヒベルニア軍の侵攻の成果、その強さと強運。
ヒョウガがもともと強い騎士だったのだとしても、期限付きのゲッシュでここまでの力と幸運が一人の人間に与えられることはあるまい。
そして、案の定の答えが返ってくる。
「期限はつけなかった」
「…………」

突然黙り込んでしまったシュンに、今度がヒョウガが尋ねてくる。
「なんだ」
「そんな誓いを立てられる人がいることが悲しい」
「悲しい? 親しい友人からは、浅はかな男と笑われたぞ」
「誰も愛さないと自分の意思で決めるなんて、寂しい」

この世に、愛を拒むことほど悲しく寂しいことがあるものだろうか。
愛したくても、愛されたくても、そうすることのできない人間がこの世にはあふれているというのに、自らその幸福を放棄するなど、大愚を通り越して寂しすぎる。
シュンは早くに両親を亡くしていた――愛してほしかったのに。
恋人の死を嘆く兄の姿を見てもいた――愛していたのに。
人はそれを求めるようにできているのだ。
愛されることと愛することを。

「おまえは……なぜ泣くんだ」
シュンの涙に、ヒョウガは面食らい戸惑っていた。
だが、問われたシュンにも自分の涙の理由などわかってはいなかった。
大切な祖国の民を苦しめる敵国の騎士のためにあふれてくる涙に まともな理由があるはずがない、と思う。

「色恋がそれほど大事なものだとは……騎士の恋など、騎馬試合で名誉と栄光を捧げるのに都合のいい貴婦人を見繕うための形だけの――」
何を言っても言われても、シュンの涙は止まらない。
困惑するヒョウガの肩に、事の次第を見守っていた騎士のひとりが手を置く。
「いい子じゃないか。しかも、ヒベルニア軍最強の騎士より数千倍賢い。この戦さが終わるまで、おまえが責任をもって丁重に世話をしてやれ」
「俺がなぜ!」

ヒョウガは仲間の言葉に反駁したが、既にそれはこの場では決定事項になってしまっていた。
涙に濡れているシュンの睫毛を見やり、ヒョウガがしぶしぶ言う。
「まあ、他に引き取り手がないのなら、しばらく俺の幕屋に置いてやってもいいが」
シュンが顔をあげて、更に上目使いにヒョウガの瞳を覗き込むと、ヒョウガはとってつけたように、
「女でないなら安心だ」
と言った。

たとえ敵国人同士が同じ場にいても、ゲッシュが守られている限り、神の意思が二人の騎士を守り続ける。
シュンは大人しくヒョウガのあとに従った。






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