瞬と二人きりで暮らしていた懐かしいあの家の前に 氷河が1年振りに立った時、瞬はまだ帰宅していなかった。
オレンジ色だった夕焼けの空は、そろそろ日暮れの紫色の筋を混じらせ始めている。

そのほとんどが不安でできている焦りを覚え、氷河は、瞬が利用している駅に向かって急ぎ足で、一度歩いてきた道を逆に辿り始めた。
郊外の閑静な住宅地を貫く通りには、秋の虫の鳴き声が細く響き、車が2台やっとすれ違えるほどの幅の道には、帰宅のために氷河とは逆方向に向かう人々の姿しかない。

大通りに出る一つ手前の角に、この付近に住む子供たちのために自治体が作った小さな児童公園があった。
帰路を急ぐ人々が、ちらちらとその公園の一角に視線を投げている。
その様を怪訝に思いながらも、その公園を突っ切るのが大通りに出る近道だったので、氷河は公園内に足を踏み入れた。
そして、氷河は、帰宅途中の人々の視線が何に向けられていたのかを知ったのである。

公園内にあるベンチの一つに、一人の男がうつ伏せに倒れていた。
男の身体からは少しえた臭いもして、どうやら彼は、いわゆる浮浪者の類らしい。
都心とは異なり、この付近ではホームレスの人間の姿自体が珍しいものだったが、それは決してこの周辺には皆無というものでもなかった。
彼がそれらのホームレスと違っていたのは――つまり、ベンチの上に倒れ伏しているその男は、まるで死んでいるかのように――動いていなかったのだ。

そういう境遇の人間に出会った時、彼等と視線を合わせないように その場をそそくさと立ち去るのが“善良な市民”というものである。
善良な市民であるはずの人々が、その男に興味ありげな視線を遠慮なく向けているのは、彼がぴくりとも動かないから――のようだった。
善良な市民でも何でもない氷河が、恐れもせずにその男の側に歩み寄ろうとした その時、彼は駅に続く大通りから、氷河のいる児童公園の方に向かって歩いてくる瞬の姿に気付いたのである。

1年前とは、手にしている鞄が違う。
瞬は今は高校生であるらしい。
氷河は瞬に駆け寄ろうとして、だが、すぐに思い直し、その足を止めた。
今の氷河は、瞬にとって見知らぬ男にすぎない。
突然話しかけられても、瞬は警戒するだけに違いなかった。

氷河が迷っていたその間に、瞬は――瞬も――児童公園のベンチに倒れている浮浪者に気付いたようだった。
立ち止まり、瞬はじっと その男を凝視している。
それで氷河は安堵したのである。
瞬がこの男に手を差し延べたら、それに力を貸す振りをして瞬に近付いていけばいい。
氷河はそう考えたのだった。
――が。

瞬なら必ずその男に手を差し延べる。
かつての氷河にそうしてくれたように。
氷河のその期待――否、期待するまでもなく、氷河は瞬がそうすることは自然で当然のことだとすら思っていた――を、瞬は裏切った。
これまで この公園の脇を通り過ぎていった他の人間たちと同じように、瞬は、そのまま――むしろ小走りになって、家に向かう道を急ぎ始めたのである。
もちろん、氷河の姿に気付いた様子もなかった。

こんなことはありえない――と、氷河は思った。
瞬は、死にかけて泥に汚れた みすぼらしい犬をさえ拾ってくれたのに。
あの瞬が、人間を――自分と同じ人間を――見捨てるというのだろうか。
氷河は呆然とした。

瞬は――氷河にとって唯一特別であり、彼の世界のすべてであった瞬は――実は、氷河を人間不信にしたあの者たちと何も変わらず、優しさも ひたむきさもない“人間共”の一人でしかなかったのだろうか――?
だとしたら、瞬と暮らしたあの1年――あの幸福な1年間は いったい何だったのだろう。
母を失った不幸な子犬が見た幻だったとでもいうのだろうか。

そんなはずはないと思いながら、だが、今の氷河には、瞬を追いかけていくことができなかった。
氷河は、この1年間で、決して幸せになろうとしない人間というものに失望し、また自分の命の終わりを悟って、自棄めいた気持ちになっていたのだ。






【next】