「――ここは、ずっとこうだったわけじゃないんです。前の院長様は、とてもお優しい方だった。前の院長様は子供たちを愛してくれてました。ただ生きることの世話をするだけじゃなく、教育にも気を配ってくれて、僕が今までなんとか生きてこれたのも、前の院長様が外国の言葉をいくつも僕に教えてくださったからで――」 それは、ほんの数年前のことである。 ヒョウガに語っているうちに、シュンの瞳は、二度と取り戻すことのできない幸福だった日々への懐かしさのために潤み始めていた。 「まさか、教養をひけらかすために、わざわざ異国の言葉であの嘆願書を書いたわけではあるまい?」 ヒョウガに問われ、こぼれかけていた涙を慌てて拭う。 シュンは唇を引き結んで、彼に首肯した。 「国民からの嘆願書のほとんどは、かなり早い段階で役人に揉み消されていると聞いていたので、この国の言葉でなかったら、もしかしたら内容を解さない役人の目をかいくぐることができるかもしれないと思ったんです」 「なぜあの言葉を選んだんだ」 「綺麗な言語だから……。僕、前の院長様に教えてもらった言葉の中で、あれがいちばん綺麗な国語だと思った……」 国語は、その国の歴史と価値観の集大成である。 その美しい言葉に出会った時、まだ幼かったシュンは身体が震えるほどの感動を覚えたのだった。 「でも……今の院長は、子供たちに読み書きを教えようともしてくれない」 読み書きができないと、この施設を出てから就ける仕事も限られてくる。 それは子供たちの人生と生活に関わる大問題だった。 そして今の状態が続けば、子供たちは、シュンがあの言葉に出会った時に感じたような感動を一生知らずに終わることになるのである。 シュンには、それはとても不幸なことに思われた。 異国の美しい言葉への憧れに輝いていたシュンの瞳が 暗く重く曇る様を、ヒョウガはしばらく無言で見詰めていた。 それから、気を取り直したようにシュンに告げる。 「――王には伝えておこう。あれは王の亡き母の国の言葉で――王は、君の書いた手紙の非常に綺麗な文字と修辞に、いたく感激していた」 「え……」 異国から嫁いできた前王妃は身体が弱く、現国王が4、5歳の時分に亡くなったとシュンは聞いていた。 これまで生まれの不公平を思ったことがないと言えば、それは嘘になるが、人の心の活動というものは身分の上下で異なるものではないだろう。 この国で最も豊かな生活を営んでいるはずの人間の 失われた母を思う心が、自分の嘆願書に王の目をとめさせてくれたのだとしたら、シュンは王のその心を愛し哀れまないわけにはいかなかった。 王同様に両親がないとはいえ、自分の家も持たない貧しい子供が 一国の王に同情するというのは おこがましいことなのかもしれないと思いつつも。 「とにかく、よく知らせてくれた。褒美に――そうだな、これをやろう」 そう言ってヒョウガがシュンの前に差し出したもの。 それは、彼の指にはめられていた白銀の指輪だった。 下品に感じられない程度の大きさの、ダイヤとおぼしき石が数個輝いている。 目の前に差し出されたそれを見て、シュンは目をみはった。 自分の前に立つ青年は、おそらくわざと質素な服を身に着けた大貴族の御曹司なのだろうと思う。 シュンは宝石を扱う商人に雇われて通詞の仕事をする機会が多かった。 それが――ヒョウガの差し出したものが――30人近い子供たちを養う養護施設の一年分の助成金でも購えないほど高価なものだということくらいは、すぐに察しがついたのである。 |