「瞬っ、よけろっ!」
別の敵が、瞬の背後に迫っていたらしい。
瞬は身についた素早さで、その敵の攻撃――ではなく、敵に向かって放たれた氷河の拳の余波をかわした。
氷河の放つ拳には、相変わらず迷いがない。

「瞬、雑魚だからって油断するな」
自分が倒した敵の身体を足で脇に転がして、氷河は瞬の腕を掴み、瞬をその場に立ち上がらせようとした。
「ご……ごめんなさい、ありがとう……」
笑おうとしたはずだったのに、涙が止まらない。
瞬は自分の涙を隠しきれなかった。

どうして自分は人を傷付けることに慣れてしまえないのか、どうして闘うことに平気になってしまえないのかと、敵に向かって ためらいなく拳を放った氷河の瞳を見あげ、思う。
氷河は仲間を守るために その拳を放ったのだということはわかっていたのだが、それでも瞬は 氷河の迷いのなさが恐ろしく、そして妬みの感情に近いほどに彼が羨ましかった。

「瞬、おまえ大丈夫か。また 敵におかしな情けでもかけて、どこか怪我でも――」
“おかしな情け”――氷河には、仲間の持つ迷いは“おかしな”ものでしかないのだろう。
確かにその通りなのだろうと、瞬も思う。
その“おかしな情け”のために、いっそ敵に倒されてしまえば、自分は楽になれるのかもしれない――そんなことを考える方が、それこそ“おかしい”のだ。
瞬は、今は、その場に立ち上がることができなかった。

「……闘う決意をした。何度もした。闘わなきゃならないんだって わかってる。でも、倒した人の血に濡れてる自分の手を見るたびに、僕はその決意を後悔するんだ。苦しくて苦しくて――」
「瞬……」
全身にみなぎらせていた戦意を消し去って、氷河が瞬の名を呼ぶ。

そんな氷河の腕にすがって、瞬は掠れた悲鳴のような声で彼に訴えていた。
「闘うから――ちゃんと闘い続けるから、天使だなんて言わないで。こんな血……こんなに人を傷付けて、傷付け続けて、僕は清らかでも天使でもない。僕は、自分を人間だとすら思いたくない……!」
「瞬……」

氷河には、“敵”より“瞬”の方が大事なものだった。
闘いの続行をあっさり放棄して、彼が瞬の前に片膝をつく。
氷河は、そして、血と泥によごれた右の手を瞬の頬に当て、微かに笑って告げた。
「おまえは清らかで、天使のようだぞ」
「氷河っ!」
氷河はいったい、この心弱い仲間を更に追い詰め いたぶって何が楽しいのだろう――?
瞬は、氷河に向かい、哀願と非難の気持ちを込め、彼の名を叫ぶことをした。

ちょうど他の敵を一掃して仲間の許に駆けつけてきた星矢と紫龍が、瞬の悲鳴に驚き、目をみはる。
氷河は、それでも、瞬の頬に添えた手を離そうとはしなかった。
「おまえのどこが清らかでないというんだ。どこが汚れている」
「全部」
そんなことは見ればわかること――見なくてもわかることではないか。
瞬は一瞬のためらいもなく、そう答えた。

氷河は――氷河もまた、一瞬たりともためらわずに、瞬のその答えを無視し切り捨てた。
「汚れるっていうのは、強いられた戦いの渦中で その戦いを仕方がないと諦め、惰性で戦い続けることをいうんだ。心の感覚が鈍くなり、麻痺して、醜い現実を受け入れることを言う。おまえは違うだろう?」

『おまえは違う』と言われれば、確かに瞬は違っていた。
闘いという現実を受け入れることができたなら、瞬はこれほどまでに傷付かず、迷わず――そして、弱くもないはずだった。

「闘うと言いながら、人を傷付けるたびに後悔して悩んで泣いて――おまえが倒した者の血がおまえの上に降りかかっても、おまえの中にそれは染み込まない。おまえは、それを拒み弾いてしまう。人の血や死に慣れてしまえば楽なのに、おまえはそれを頑なに拒み続ける」
「僕は――」
「だから、おまえはいつまで経っても清らかなままだ。呆れるほど。それこそ、処女のように潔癖だ」

氷河は本当に呆れているような口調でそう言った。
呆れ、感嘆し、そして、傷付いている仲間を慈しむような瞳で。






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