氷河の計画は杜撰に過ぎる計画だと、瞬は本心では思っていた。 が、少なくとも氷河は焦慮にかられてそんな計画を立てたのではないらしい。 彼はその成果を性急に求めるようなことはせず、彼が瞬に、 「さて、そろそろ機も熟した頃だろう。星の子学園に乗り込んで、絵梨衣の前でべたべたしてやるか」 と言ってきたのは、瞬が氷河の恋人の振りを始めてから1ヶ月以上が過ぎてからのことだった。 その1ヶ月という長い時間の間、氷河に恋人としての振る舞いをされるたび、瞬がどれほど傷付き続けていたのかに、彼は全く思い至っていないようだった。 残酷な氷河は、そして、その言葉を実行に移したのである。 星の子学園に瞬を伴って出向いた氷河は、絵梨衣の目のあるところで“振り”モード全開で瞬にべたついてみせたのだった。 いつもなら子供たちに混じってサッカーボールを蹴るところを、その日に限ってはギャラリー席に陣取り、子供たちと星矢の奮戦ぶりを感染する――瞬の肩を抱き寄せて。 肩だけでなく、瞬の髪や背や腰にほとんど愛撫まがいの仕草でまとわりつく氷河の手と指に、絵梨衣は眉をひそめ、ちらちらと幾度も不愉快そうな視線を投げてきた。 「氷河、ちょっと」 氷河より瞬の方が先に その場の気まずさに耐えかねて、氷河の腕を引き、彼をグラウンドから連れ出したのである。 星の子学園のグラウンドに面した渡り廊下を曲がったところで、瞬は氷河に訴えた。 「ね、やっぱりこういうのってよくないよ。僕、逆効果のような気がする」 氷河は絵梨衣の心が、氷河の意図した方向とは逆に動くことを――たとえば、同性に対して親密な態度で接する人間に、彼女が嫌悪感を抱く可能性を――考えていないのだろうか。 プライドを傷付けられた絵梨衣が、瞬の手から氷河を取り戻そうと考えることより、そちらの方がずっと ありそうなことだと、瞬は思ったのである。 「しっ」 瞬のその訴えを、氷河の低く短い声が鋭く遮る。 「ど……どうしたの」 急に険しくなった氷河の表情に、瞬はびくりと身体を震わせた。 「廊下の角のところで、絵梨衣が俺たちを見ている」 「あ……」 慌てて後ろを振り返ろうとした瞬は、氷河に腕を掴まれたせいで、そうすることができなかった。 瞬の腕を掴んだ氷河の両手が上に瞬の身体を撫でるように移動し、そのまま瞬の頬に添えられる。 「氷河……?」 いったい氷河は何をするつもりなのかと戸惑い、彼の顔を覗き込んだ瞬の上に 氷河の囁きが降ってきた。 「瞬、好きだ」 もちろんそれは、瞬のための言葉ではなく絵梨衣に聞かせるためのものである。 それは瞬にもわかっていた――それでも。 自分のための言葉ではないとわかっていても、瞬の心臓は大きく波打った。 「あ……」 氷河の“振り”は、言葉だけでは済まなかった。 言葉に続いて唇が――氷河の唇がおりてくる。 瞬は反射的に彼の手の内から逃れようとしたのだが、瞬の頬を包む氷河の手は――決して強い力が込められているわけではないというのに――瞬に微動することすら許してくれなかった。 そして、氷河の唇は瞬の唇に重ねられた――のである。 (氷河……!) 心臓が、破裂してしまわないのが不思議なほどに速く強く鼓動を打つ。 どうして“振り”のキスを交わす氷河の唇がこれほどまでに熱いのか、瞬にはわからなかった。 キスの甘さや熱のせいではなく 混乱のために、瞬は気が遠くなった。 幸い、瞬が重心を見失いかけた まさにその瞬間に、氷河の唇と腕が瞬から離れ、瞬は倒れる寸前になんとか我にかえることができたのだが。 「ばっちり見られた」 してやったりと言わんばかりの氷河の表情と口調に、それまで熱い鼓動を打っていた瞬の心臓が、冷水を浴びせかけられでもしたかのように冷たく凍りつく。 「ひょ……氷河……あの――」 氷河は、自分が仲間のファーストキスを奪ったことに気付いているのだろうか。 氷河は、おそらく気付いていない。 せめてその残酷に気付いてほしいと、瞬は彼にその事実を訴えようとした。 が、瞬がそうする前に、 「さて、ガキ共のところに戻るか。絵梨衣の反応が楽しみだ」 「あ……」 氷河は首尾よく事は成ったと言わんばかりの態度で、心残りのかけらもない機敏さで、瞬の前で踵を返した。 そのまま振り返ることもなく、子供たちの歓声であふれている場所に戻っていく。 「こんなの、あんまりだ……」 零れ落ちた涙を拭うことすら思いつかない。 自分をみじめだと思う気持ちも、瞬の中には湧いてこなかった。 瞬はただ、ひどく悲しかった。 とても悲しかった。 |