最初に氷河に『好きだ』と言われたのは いつのことだったろう。
随分前のことのように記憶している。
瞬は、氷河のその言葉に、「僕も好きだよ」と笑って答えた。
それが自分の望む『好き』であるはずがないと思ったから。

それからも氷河は、幾度も幾度も瞬に向かってその言葉を告げた。
「瞬、好きだ」
「愛してるぞ」
時には真顔で、時にはふざけた様子で。
瞬はその言葉に触れるたびに、胸を高鳴らせながら、『そんなはずはない』と自分に言い聞かせ続けたのだ。

悪いのは――氷河にこんなことをさせてしまったのは、負い目と卑屈に支配されていた自分自身だったのだと、瞬は思わないわけにはいかなかった。
氷河を責めることはできない。
だが、彼を責める代わりに、自分のつらかった気持ちを訴える代わりに、何をどう言えばいいのかわからなくて――瞬は、瞼を伏せて氷河に尋ねた。

「氷河、そんなに、その……したいの」
「あたりまえだろう! 俺はおまえに惚れまくっているんだぞ!」
伏せていた顔をあげ、ほとんど怒鳴りつけるような大声を、氷河は瞬に叩きつけてきた。
それから、偉そうにそんなことを訴える権利のない現在の自分の立場を思い出したのか、もう一度、
「すまん」
と言って、頭を下げる。

氷河の怒鳴り声のせいで、だが、瞬はかえって気が軽くなったのである。
勇気を振り絞って、瞬は氷河に提案した。
この氷河が――こんな氷河が、好きで好きでたまらない自分自身を再確認しながら。
「し……してみようか」
「瞬?」
「怖くないよね?」
「も……もちろんだ。俺は、世界でいちばん、おまえに優しくしてやりたいと思っている男だぞ」
「うん……」

これまで自分は、どうしてこれほど――卑屈すぎるほど卑屈になっていたのだろう――と思う。
もし自分が真剣に氷河に 好きだと告げていたら、たとえ同じ思いを抱いていなくても、氷河は決して仲間を軽蔑したりはしなかったろう。
真面目に悩み考え、それでも瞬を軽蔑したり嫌ったりするようなことはしなかったはずだった。
瞬は、今更ながらに、自分の卑屈を恨めしく思った。

黙り込んでしまった瞬に、氷河が心配そうな目を向けてくる。
「瞬? ……無理しなくていいんだぞ」
気遣わしげにそう言ってくれる氷河に、瞬は、泣きたい気持ちで笑顔を作った。
普段は、『鹿を逐う者、山を見ず』を実践するかのように遮二無二な氷河が、これほど気を遣い、あれほどまわりくどいことを企みさえしてくれたのだ。
ただただ卑屈のために、自ら堅い殻を作り、その中に閉じこもっていた臆病者のために。

瞬は首を横に振って、そうではないことを氷河に伝えた。
無理など、するはずがないではないか。

「氷河は何度も僕に好きだって言ってくれてた。僕が勝手に、氷河が僕をそんなふうに好きでいてくれるはずがないって思っていただけで――思おうとしていただけで……」
唇を噛みしめ、これまで卑屈の殻の中で過ごしてきた時間を悔いる。
「言葉で言って、それでも通じなかったら、困るよね。ごめんなさい」
「まあ……言葉にも限界はあるからな」

だからといって力に訴えるわけにはいかない――それをしてしまったら、それは“闘い”になってしまう。
アテナの聖闘士が、その“闘う”ということをしてまで、この地上からなくそうとしている“闘い”を、自ら生むわけにはいかないのだ。
「普通は……他の人はこんなじゃないのかな。言葉でのやりとりに齟齬があっても、互いを見ていればわかり合えるのかな……」
臆病の罠に陥らず 自然に恋ができている者たちを、瞬は偉大だと思った。
その偉大な者たちの仲間入りを、ぜひ果たしたいと思う。

そのためには――素直になるのがいちばんなのだろう。
だから瞬は素直な気持ちになって――同時に、瞬の心は軽くなった――氷河に尋ねてみたのである。
「この計画がうまくいかなかったら、氷河、どうするつもりだったの」
「もちろん、次の手を打つ」
「それも駄目だったら?」
「また次の手を考える」
「僕の臆病と卑屈は筋金入りだよ。氷河の方がを上げることになっていたかもしれない」
もう決してそんな自分にはなるまいと決意しながら、瞬は過去の自分自身を揶揄した。

「言葉で言って駄目だったら、普通は諦めるものなのかもしれないが」
その仮定文を、氷河は自分には関わりのない他人事のように口にした。
実際、それは氷河にとっては他人事なのだろう。
氷河は、“死”でしか ものごとを諦めない。
「俺はどうあってもおまえを思い切ることはできないから、死ぬまで頑張るだけだ」
「…………」

生きている限り、彼は諦めないのだ。
そんな氷河だから、そんな氷河に、自分の心は惹きつけられるのだろう。
瞬は今になって初めて、自分が氷河を好きになった訳を知ったような気がした。
「僕は……卑屈でいるだけだった。最初から諦めてて――僕のこんな気持ち、氷河には迷惑なだけだと思ったから」
「言ってみなきゃ、わからないじゃないか」

諦めない氷河が、至極あっさりと言ってのける。
瞬は驚きに目をみはり、それから深く大きく頷いた。
「うん……。うん、そうだね」
氷河の顔を見上げ、一度大きく息を吸い 吐いてから、瞬はこれまでずっと言えずにいた言葉を口にした。
「氷河、大好き。大好きだったんだ、もうずっと」

瞳を切なく潤ませた瞬にそう言われ、今度は氷河の方が言葉を失うことになった。
瞬が上目使いに、そして次に伏目がちになって、氷河に尋ねる。
「迷惑?」
「迷惑どころか!」
気負い込んで反駁してから、
「嬉しくて気が狂いそうだ」
氷河は真顔で、噛み締めるようにそう言った。

瞬は、その言葉を言葉通りに受け取って、そして喜ぶことにしたのである。






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