氷河の右の手が瞬の頬に添えられる様を見た星矢は、一応、自分はこの場から消えた方がいいのではないかと思ったのである。 ちらりと視線を脇に向けると、瞬と氷河が腰をおろしているソファの向かい側にある肘掛け椅子には紫龍がいて、彼は彼の前方1.5メートルの場所で行なわれていることに気付いてもいない風情で、読書にいそしんでいる。 これでは、星矢だけがこの場から退散しても、あまり意味はなさそうだった。 何より事態の収拾に乗り出した氷河当人が、その時には既に、この世界には自分と瞬しか存在していないと言わんばかりの態度で、彼の仕事に取り組み始めていた。 普段星矢たちには聞かせたことのない優しげな声で、氷河が瞬に囁きかける。 「おまえの前に敵として現れるものとは誰のことだ? 誰もがおまえにそんなことを言うのか?」 「僕は傷付けたくないって言ってるのに、なのに彼はそう言った僕を怒るんだ……」 「傷付けたくないと言われたら、そりゃあ怒るだろう。それは力で勝っている者のセリフだ。“彼”はおまえに侮辱されたととる」 「僕はそんなこと思っていない。なのになぜ!」 「――間違ったプライドが高いんだろう。そんな馬鹿の言うことを気にする必要はない」 半分泣き声じみている瞬の声に比して氷河の口調はあくまでも穏やかで、そして、幼い子供を慰撫するように優しい。 星矢は無意識のうちに、自分が手にしているケーキの箱に視線を落としていた。 その中にあるもののように、氷河の声は甘いのだ。 「誰かに『死ねばいい』と思われることが、そんなに嬉しいの。『傷付けたくない』は侮辱で、『死んでしまえばいい』は侮辱じゃないっていうの」 超の字がつくほど甘党の瞬が、なぜ氷河の声に酔わないのかと、星矢はそんなことさえ考えたのである。 「僕は悲しい。誰かにそんなこと言われたら、そんなこと思われたら、死んでしまえなんて思われないために死んでもいいって思えるほど悲しい。僕は――自分を死んでいい人間だなんて思いたくない。自分をいらない人間だと思いたくない」 「誰も、 「でも、事実――!」 眉根を寄せ 切なげな目をして氷河にすがる瞬に、氷河は微かに首を左右に振ってみせた。 「自分のプライドや正義や、そんなもののためにそんなことを言う奴は、本当は自分しか見ていない視野狭窄の人間だ。そいつは自分の世界を壊すものに消えてほしいだけで、おまえ個人を憎んでいるわけじゃない。追い詰められ、切羽詰まって必死なんだ。そういうことを言う奴を、おまえは哀れんでやればいい」 「…………」 瞬は答えない。 おそらく、瞬が欲しい結論はそんなものではなかったのだろう。 星矢が気付いたことを、もちろん氷河は星矢より迅速に察知したらしく、彼は話の方向を微妙に変えてきた。 「おまえは死ぬのか? そいつに死ねばいいと思われないために?」 「その方がいい……」 瞬は、氷河に叱責されることを覚悟して、そう答えたのだろう。 星矢は――そう言われたのが自分だったら、自分は間違いなく瞬を怒鳴りつけている――と思った。 そして、氷河もそうするに違いないと思ったのである。 が、氷河の反応は、星矢の推察に反して 至極穏やかなものだった。 凝視している者にやっと見てとれるほどの微かな苦笑を浮かべて、彼は瞬に告げた。 「まあ、確かに――100万人の人間に『生きていてほしい』と思われていることより、たった一人の人間に『死ねばいい』と言われることの方が、受ける衝撃は大きいだろうが――」 氷河がその手で瞬の顔を上向かせ、その視線を捉える。 「だが、忘れるなよ。俺にはおまえが必要だ。おまえを見ている。おまえに生きていてほしい」 「氷河……」 氷河の青い瞳を見詰め返す瞬の瞳はまだ潤んでいたが、その涙は既にとまったようだった。 「そう思う俺のために生きていてくれ」 たった一人の人間に『死ねばいい』と言われることは、たった一人の人間に『生きていてくれ』と言われることの100分の1も重くはなかったのだろう――瞬にとっては。 まして、そう言っているのが氷河なのだ。 瞬は、その瞳から新しい涙を一粒零して、 「氷河も生きててくれる?」 と、氷河に尋ねた。 「もちろん」 すぐに 全くためらいのない氷河の答えが瞬に与えられ、その答えを得て安堵したらしい瞬の口許には微笑が浮かんできた。 それから瞬は、もう一度氷河の瞳を見上げ見詰めることをした。 |