「何にもされなかったーっ !? 」 「うん」 「何でだよ。氷河って、どっか悪いのか? そんなの変じゃん」 瞬にとってはこの上なく心地良かった朝――と、その朝をもたらした夜。 それが、星矢には“変”なことでしかなかったらしい。 瞬に感想を迫った星矢は、瞬の感想(というより報告)を聞くと、実に素頓狂な声を室内に響かせてくれた。 「いや、氷河と瞬は一応同性の仲間同士なわけだから、何かされる方が変だろう」 そう言う紫龍も、やはり彼自身の言葉とは裏腹に、この事態を奇妙なことと思っているようだった。 「何もする気がなくて、同性の仲間と一緒に寝たいなんて言い出す奴がいるか、ふつー?」 「“普通”を氷河に求める方が間違っているだろう。ソクラテスとアルキビアデスの例もある」 紫龍がそんな例えを持ち出したのは、氷河の“変”な行動の理由に至るための一助にしようとしただけで、決して氷河を史上最大の哲学者に比そうとしたわけではなかった――もちろん。 「何だよ、それ」 ギリシャ最大の哲学者に関して、『太った豚であるよりも、痩せたソクラテスであれ』という格言以外の知識を持ち合わせていなかったギリシャ育ちの星矢が、臆面もなく紫龍に説明を求める。 最初からその手の知識を星矢に期待してなどいなかった紫龍は、特に気を悪くしたふうもなく、仲間の求めに応じた。 「美少年のアルキビアデスが、ソクラテスが自分に目をかけてくれるのは自分の美しさゆえだと勘違いして、ソクラテスに男色行為の誘いをかけたんだ。しかし、『ソクラテスのマントの中に潜り込んで、両手でこの神霊じみた男をかき抱いて寝たというのに、父親や兄と寝たのと全く同じに、夜を通して何事も行なわれなかった』と、ものの本に買いてある」 「そっちの趣味のないおっさんだったんだろ」 「まあ、その通りなんだが、彼が幾人もの良家の子弟を側においたのは、助平心からではなく、将来ポリスの支配者になる可能性のある青少年たちに自分の哲学を教え込もうとしていただけだった――という話だ。彼が愛していたのは、若者たちの外的な美ではなく、内的な精神とその可能性だったわけだな」 説明を終えてから、どう考えても氷河はソクラテスではない、と紫龍は思った。 星矢も、考えることは紫龍と同じである。 「そんな薀蓄は、この際 何の参考にもならないぜ。ソクラテスってのは、すっかり枯れた どっかの貧相なじいさんだろ。氷河はやりたい盛りの青少年なんだぞ!」 吐き出すようにそう言ってから、星矢は瞬に向き直った。 「瞬。おまえ、この期に及んで、やっぱり嫌だとか言って 駄々をこねたり、泣き落としをかましたりしたんじゃないだろーな? んなの男らしくねーぞ!」 「そ……そんなことしてないよ。僕だって、そんな――そんなだったら、最初から氷河のとこには行かない……」 弁解がましい言葉を星矢に返しながら、瞬は、『何もなかったこと』に関して、なぜ星矢にこれほどの非難を受けなければならないのか、どうにも納得できずにいたのである。 行なわれるだろうと確信していたことが行なわれなかったことを不思議と思う気持ちは、瞬の中にも確かに存在していたのだが、しかし、それは決して非難されるようなことではないはずだった。 「でも、ほんとに ずっと肩を抱いてるだけで、他には何にも――」 それでも瞬としては、星矢の非難に事実を告げて俯くことしかできなかったのである。 「氷河がまさか、おまえに自分の哲学を教え込もうとしたわけもないだろうしな」 この状況は、紫龍にも不可解な謎だったらしい。 最もありえないことを溜め息混じりに呟く仲間に、瞬は思い切って自分の推察を告げてみたのである。 「あ……あのね。氷河はもしかしたら、そういうことをしたかったんじゃなくて、その……や……やすらぎとか温もりとか、そういうものを求めてたんじゃないのかな。氷河は、最初から僕にそんな変なことしようなんて考えてなかったんだよ、きっと」 自身の声を、我ながら期待と落胆が入り混じった微妙な声だと、瞬は思ったのである。 だが、自分の推察が当たっていてくれたなら、瞬にとってこれほど喜ばしいこともなかったのだ。 「その変なことされるのを期待してたんだろ、おまえは」 「期待なんて……! か……覚悟はしてたけど」 「噂をすれば影」 星矢と瞬のやりとりを、紫龍の低い声が遮る。 この謎を作った張本人のお出ましだった。 「どうやら今朝は、健やかで爽やかな朝を迎えられたようだな」 謎を解くには謎を作った本人に訊くのがいちばんの早道と考えた紫龍が、さりげなく氷河に探りを入れる。 その場にいた瞬に短い笑みを投げてから、氷河は紫龍に頷き返した。 「目覚めた時に、隣りに瞬がいたら、いい気分で朝を迎えられるんじゃないかと思ったんだが――」 「ほう。で、いい気分になれたのか」 「予想以上に」 至極あっさりと、そして落ち着いた態度で、氷河が問われたことに答える。 が、彼が提示した答えは、謎の解明には何の役にも立たないものだった。 「んじゃ、今夜は俺とどーだ?」 この得体の知れない金髪男に挑むように、星矢から提出された提案は、しかし、 「朝っぱらから、おまえのうるさい顔を見て何が楽しいんだ?」 の一言で にべもなく一蹴された。 それは受け入れられても困る提案だったのだが、ここまで速やかに却下されると、星矢としてもいい気はしない。 不愉快そうに顔を歪めた星矢を、だが、氷河は気にする様子も見せなかった。 代わりに、瞬の方に向き直る。 「瞬、俺は明日もいい気分で目覚めたいんだが」 「うん……あの……僕も」 謎は解明される気配もない。 だが、その謎が心地良いものであるのなら、それは無理に解き明かす必要もないのではないだろうか。 今朝、氷河の腕の中で過ごした幸福なひと時を思い出し、瞬は氷河に頷いた。 |