子供はどうやら逆上がりの練習をしているようだった。 おそらく小学校3年生か4年生。 眼鏡をかけて利口そうな顔をしていたが、あいにく運動神経と腕の筋力には恵まれていないらしく、幾度地面を蹴っても彼の爪先が鉄の棒を越えることはない。 その公園には他に動くものがなかったので、どうしても瞬の視線はそこに引き寄せられる。 10メートルほど離れた場所から、瞬は、柳の葉に取りつこうとして飛び跳ね続けている蛙のような子供の姿をじっと見詰めていた。 ふいに、手がすべったのか、子供が鉄の棒の下に尻餅をつく。 かけていた眼鏡が外れて、彼の右手の脇に転がった。 頭から落ちないところをみると、彼が運動神経に恵まれていないという判断は間違いだったかもしれない。 駆け寄って、拾った眼鏡を彼に手渡しながら、瞬はそう思った。 「逆上がりの練習?」 「あ、ありがとうございます。ええ、あさって、鉄棒のテストがあるんです。クラスでリサーチしたところ、男子でできないのは僕だけだったので、慌てて隠れて特訓を始めたんです」 眼鏡をかけ直した子供は、尋常の子供が使う丁寧さとは相当に異なる丁寧語で、彼が学校ではない場所で逆上がりの練習をしている理由を瞬に教えてくれた。 手の平に擦過傷ができているらしく、右の手の平を左手のそれで押さえている。 「手、大丈夫? あんまり無理すると、逆上がりどころか教科書も持てなくなっちゃうよ」 幼い頃は――幼い頃も――泣き虫で鳴らした瞬だったが、さすがに逆上がりができなくて苦労したことはない。 それができない子供にとって逆上がりという事業がどれほど大変なことなのか、実のところ瞬はよくわかっていなかったのだが、それでもそれが怪我をしてまでできるようにならなければならないことだとは、瞬には思えなかった。 「テストで合格点をもらえなかったくらいのことで人生が変わるわけじゃないんだし、嫌々やってると緊張感を欠いて怪我もしやすいし――」 そろそろ日も暮れるよ――そう言いかけた瞬を、その子供は少々気分を害したような口振りで遮った。 「嫌々やってるわけじゃありませんよ。できなくて笑われるのも不愉快だし、怪我をするのも本意じゃありませんけど、でも、成功したら気持ちいいだろうと思うから、頑張って練習してるんです。大人が子供に、そういう逃げや甘えを奨励するのはよくないと思います」 「え……」 何という こまっしゃくれた子供だろう――と思うよりも先に、瞬は彼を『可愛い』と感じてしまっていた。 慇懃に属するような言葉遣いはともかく、この生意気さは子供の頃の氷河に似ているような気もする。 もっとも、この年頃の氷河は、逆上がりどころか“後方伸身二回宙返り二回ひねり”や“後方抱え込み三回宙返り”の男子鉄棒E難度技を、模範演技の映像を一度見ただけで簡単に仲間たちに実演してみせてくれたものだったが。 むしろ、長々しい技の名前を覚えることの方が、幼い彼には苦行だったらしい。 闘いの際に氷河が使っている彼の技も、実は、覚えにくい正式名称が他にあるのではないかと、瞬は時々思うことがあった。 氷河は、名前というものに全く価値を置かない人間なのだ。 どこか氷河に似ているこの子供に、逆上がりを成功させ良い気分を味わってほしいと思い、瞬は彼に“よくないこと”を勧めることを中断した。 代わりに、逆上がりのコツを彼に伝授する。 「あのね、足を前に蹴りあげちゃだめなの。足は前じゃなく、上に運ぶの」 「上に?」 「そう。そして、腕は伸ばしちゃだめ。鉄棒を自分の方に引き寄せるみたいな気持ちで、身体をできるだけ鉄棒に近づけるんだ」 「――足は上。鉄棒を引き寄せる」 彼は鉄棒にその手をかけて目を閉じると、瞬の助言を口の中で反復した。 まさか小学生の体育でイメージ・トレーニングに類することを教えるとも思えないので、それは彼自身が編み出した“技”なのだろう。 見掛け倒しではなく、頭のいい子のようだった。 これなら逆上がりの一つや二つはすぐにできるようになるに違いない。 瞬がそう思った瞬間に、 「えいっ!」 彼の足は地面を蹴り、鉄棒の周囲をぐるりと回って 反対側の地面に すとんと着地していた。 「できたっ!」 こまっしゃくれた子供が、初めて子供らしい満面の笑みを瞬に向けてくる。 湧き起こってくる喜びを抑えきれないでいるらしい無邪気な瞳に、瞬も微笑して頷いた。 「うわー、ほんとにできた! 嘘みたいだ!」 確かめるように もう一度、彼は大地を蹴った。 身体が一回転し、その時には彼はもう“クラスでただ一人逆上がりができない男子”ではなくなっていた。 「わあ、夕陽が昇るみたいに見える!」 何やら妙に気の利いた言葉を吐く子供である。 「へえ?」 その言葉に興味を覚えて、瞬は彼の隣りで彼と同じことをしてみた。 児童用の鉄棒は瞬にはさすがに低すぎて 少々やりにくかったが、彼が言った通りの光景が瞬の視界にも飛び込んでくる。 地平線とまではいかなかったが、公園の付近の住宅地の屋根の向こうに今にも沈もうとしている夕日が、確かに昇ってくるように見えた。 「ほんとだ」 素晴らしい発見の立会い者になった気分で 思わず笑みをこぼした瞬に、子供が瞳を輝かせ、大きな声で礼を言ってくる。 「ありがとう、おねーさん!」 返事に困った瞬が苦笑すると、彼は不思議そうな目をして瞬の顔を見上げた。 それから子供らしい不躾さで瞬の胸のあたりを見詰め、ぎょっとしたように肩をすくめる。 「お……おにーさん? 失礼しました。ごめんなさい!」 逆上がり成功の助言への礼を告げた時にも下げなかった頭を下げてみせる小学生に、瞬は慌てて首を横に振ってみせた。 「謝らなくていいよ。慣れてるから」 その手の誤解に、瞬は慣れていた。 実際、瞬を歴とした男子と認めてくれるのは、彼の仲間たちくらいのものだったのだ。 |