「静粛に! ここでは私語は慎みなさい!」
バルロンの鞭があっさりと解かれてしまったのは、突然の闖入者とそれに伴う雑音のせいに違いないと 自らに言い聞かせながら、ルネは静寂の法廷に結集したアテナの聖闘士たちを一喝した。
初めてその存在に気付いた氷河が、法廷前部中央の席の前に立つ男の上に視線を向ける。
そこには、銀青色の髪をした端正な顔立ちの男が、冷たい紫の瞳でアテナの聖闘士たちを見下ろしていた。
もっとも、彼の容姿は氷河の美感から大きく外れていたので、氷河自身は彼を“端正”だなどとは思いもしなかったが。

「いったい、どうしたというんだ」
氷河が、この法廷の主を軽く無視して、自分の美感に最も強い力をもって訴える人間に事の次第を尋ねる。
尋ねられた瞬は、だが、ここで彼に真実を告げるわけにはいかなかった。
そんなことをしたら、氷河を憤らせ悲しませることがわかっている。
氷河を悲しませない理由を4、5秒かけて考えて、瞬は、思いついたそれを口にした。
「あの人が、僕がほうれん草のおひたしを食べることは、動植物の命を奪うことだから罪だって言うんだ。だから僕を罰するって」

「なに?」
「ケーキも駄目かな。小麦の命と、卵の命を奪ってることになるもの」
苦し紛れに思いついた理由だというのに(だが完全に嘘でもない)、瞬は、自分が口にしたその言葉にしょんぼりしてしまったのである。
ルネが言っていたのは、つまりはそういうことなのだ。
人間が犯す最大の罪は、他者の命を奪わずには生きていられないこと、それ自体なのだと。
「何を言っているんだ。今どき市場に出回っている卵のほとんどは無精卵だ。最初から命はない!」
瞬を励ますようにそう怒鳴ってから、彼はこの法廷の主に憎々しげな目を向けた。

「そんな暴論で俺の清らかな瞬を責めるとは、さすがは卑怯と不細工で聞こえた冥闘士スペクター、見上げた根性だ」
「こ……この私を不細工と言うか!」
卑怯と言われたことに まず怒るべきだろうと、ミーノスの発言を聞いた紫龍はごく冷静に考えたのである。
無論、彼はその考えを言葉にはしなかった。
わざわざそんな指摘をするつもりは最初からなかったが、それ以前に――彼が何事かを言う前に、氷河がルネに噛みついていってしまっていたのだ。

「スペクターというのは、冥界の亡者たちと違って生きているんだろう。動植物の命を奪うことが罪だとほざく貴様は、では毎日 霞でも食っているんだろうな!」
氷河の鋭い指摘に、ルネはぎくりと身体を強張らせたのである。
彼の今日の朝食は、ジャガイモとニンジンとタマネギと牛の命を犠牲にした『カレーの冥王様』だった。
もちろん、煮込んでから一晩寝かせてコクと旨みを増したものである。
そして、お昼には『シチューのミーノス様』が用意済みだったのだ。

「霞を食うどころか、呼吸もしていないはずだ。生きている人間が呼吸をすれば、空気中の微生物の命を奪うことになる。ろくな食い物を食っていないとなれば、大した精力も体力も持ち合わせてはいるまい。あっちの方もさぞかし弱いんだろうな」
氷河としては、そういう男なら瞬といても安全であるに違いないと考えて、むしろ褒めたつもりだったのだが、ルネに氷河の考えていることがわかるはずもない。
彼はこめかみを引きつらせて、裁判官席に続く階段の上から、傍若無人な金髪の聖闘士を険しい目で睨みつけた。






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