『何もかも なかったことにしちまえばいいんだ!』
そうすることができたなら悩まない。
苦しみもしない。
星矢のようにまっすぐな心の持ち主には、それがわからないのだ――。

今年の冬は例年をはるかに上まわって風が冷たい。
シベリアのそれに比べれば生ぬるいほどの日本の冬の空気を、だが、氷河は、刺すように冷たいと感じていた。
すべての葉を落とした城戸邸の庭の木々が、氷河の頭の上で寒さに凍え震えている。

瞬と身体を重ねるまで、自分がどれほど瞬が好きだったか――を、氷河は思った。
だが、今、自分が瞬に執着するのは、あの頃のように瞬が好きだからなのか、瞬が思っていた通りの瞬でなかったことに憤っているからなのか、他の誰かと比較されていると思わざるを得ないことが不愉快なのか、あるいは、憎しみ、嫉妬、自分の期待を裏切った瞬への復讐心、独占欲――そういった感情のせいなのか、それすらも氷河にはわからなかった。

確かに自分は 以前のように瞬を好きではないのかもしれない――とは思う。
だが星矢の言うように“別れる”ことなどは思いもよらない。
だいいち“別れ”て どうなるというのだ。
二人は同じ建物の内に住み、同じ空気を吸い、毎日顔を合わせる場所にいて、ひとたび敵が現れれば同じ命懸けの闘いに 身を投じなければならないというのに。

こんなことなら、ずっと“仲間”のままでいればよかった――と、氷河は思ったのである。
以前は、こんなことで思い煩うことはなかった。
生死を懸けた闘いを共にしてきた仲間との間には――瞬との間には――絶対の信頼があり、裏切られることなど考えたこともなかった。
瞬は優しく、しなやかに強く、そしてある日、その時にはまだ仲間の一人にすぎなかった氷河を命を懸けて救おうとさえしてくれた。
「そうだ、瞬は命を懸けてくれたんだ……」
声に出して、氷河はその事実を噛みしめた。

憶えている――忘れたことはない。
『死なないで』『生きていて』と繰り返される瞬の囁き。
祈りに似たその言葉とその響き――を。

闘いはまだ始まったばかりだった。
アテナの聖闘士たちの前には、あの十二宮での闘いのあとも多くの敵が立ちはだかり、黄金聖闘士たちとの闘いは彼等の長い闘いの日々のほんの序章にしかすぎなかった。
だというのに、氷河は早くも闘いを放棄しようとしていた。
本当は失われていないもの――それは、氷河の心が強くありさえすれば決して失われることのないもののはずだった――を失ったと思い込み、氷河はほとんど自棄になっていた。
そんな自分に、それでも生きていてほしいと望む人がいてくれることを知って、氷河は生きることを決めたのだ。

瞬がいてくれれば、生きていられる。
自分が生きていることに意味があると感じていられる。
そして、誰かを幸福にできるかもしれない――その思いが、氷河に生を決意させた。
その瞬を、もし失ったなら、自分には生きている価値があるだろうか? ――と、氷河は自問した。
自分はそれでも生きていたいと思い続けていられるのだろうか――? と。

氷河は自信がなかった。
瞬と離れて生きることなど不可能に思える。
なにより氷河は、瞬が側にいなければ、容易に生への執着を放棄しかねない自分自身を知っていた。
そしてもし、自分が死んだなら、瞬が泣くことも知っていた。
それが仲間に対してどれほどひどいことをした男でも、その死を知れば、きっと瞬は泣く。

瞬の瞳から涙があふれる様を思い浮かべて、氷河はぞっとしたのである。
そんな瞬の姿を、氷河は見たくなかった。
瞬に笑っていてほしくて、そのためならどんなことでもしようと思った。
瞬が笑っていてくれたなら どんなにいいか、その笑顔を作ることに自分が関わることができたなら、生きるという行為はどれほど素晴らしい奇跡になり得るか――。
その気持ちが募って、自分は瞬に好きだと告げたのではなかったか。

新しい年を迎え、カレンダーを変えるように、新しい日記帳を用意するように、二人の心をリセットしてしまったら、自分は以前と同じ気持ちで瞬を好きでいることはできなくなるだろう。
そして、すべてを忘れて、心の傷の痛みを感じることなく、ただの仲間として瞬を見ている自分自身に、氷河は耐えられそうになかった。

『嫌なんだろ。今の瞬が。おまえの思ってた通りの瞬じゃなかったから。だったら、綺麗に別れて、何もかも なかったことにしちまえばいいんだ』
星矢らしい、単純で辛辣な言葉。
だが、やはりそれは、二人の仲間のことを思っての助言であったに違いない。
それができるならしてみろと、星矢は、現実を氷河に突きつけてみせたのだ。
星矢が言う通り、それはリセットできないものだった。
できるわけがない。
忘れてしまいたいことと 失いたくないものを比べれば、失いたくないものの方がはるかに大きな比率で、氷河の心のほとんどを占めていた。

自分には必要なのだ。
このやりきれない思いや痛みと共に、瞬という存在が。
自分が生きているために。
そんな考えるまでもないことを忘れていられた自分自身が、氷河は今は不思議でならなかった。

風が肌を刺すように冷たい。
やはり冬は冬らしく凍えるほどに寒い方がいいと、氷河は思ったのである。
沸騰するほど熱くなっている頭を冷やすのに、仲間のまっすぐな眼差しと冷たい風ほど有効なものはない。
そして氷河は、瞬の温かさが恋しかった。






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