自分のせいで疲れ果て、深い眠りの淵に沈んでいる瞬を無理に目覚めさせることはためらわれ、氷河は瞬の目覚めを待っていた。
側にいると、瞬のためではなく自分の気持ちを落ち着かせるために瞬を起こしてしまいそうだったので、瞬の側にいたいと訴える我が身を無理に瞬の側から引き離して。

その瞬のお出ましである。
幾度も脚を組み替えて じりじりしながら身体を押し込めていた肘掛け椅子から、氷河は飛び上がるようにして身を起こした。
そして氷河は、ラウンジに姿を現した瞬の前に立ち、神妙な顔で瞬に謝罪の言葉を告げた――告げようとした。
「瞬、今まですまなかっ……」
「氷河っ!」

氷河の謝罪が、瞬の甲走かんばしった声に遮られる。
何やら異様に神経を高ぶらせているらしい瞬の様子に 氷河が気付くのと、瞬が興奮のあまり呂律ろれつの回っていない口調で氷河を問い質し始めるのが ほぼ同時だった。
「ぼっ……僕が、氷河以外の人とそんなことしてたって、どっ……どうして……!」
「瞬……?」

ふと視線を巡らすと、星矢が瞬の後ろに きまり悪そうな顔をして立っている。
どうやら星矢は、瞬が隠していることに瞬の恋人が気付いてしまっていることを、瞬に知らせてしまったものらしい。
「――ああ、そうか……」
だが、今となっては、そんなことはどうでもいいことである。
氷河は意識してゆっくりと首を横に振った。

「そのことはもういい。忘れろ。俺も忘れる。おまえの過去に何があろうと、俺は今のおまえが好きなんだ」
それは、聞きようによっては大変に潔く男らしい言葉だった。
だが、氷河のその潔い言葉は、瞬の心にかけらほどの感銘も呼び起こすことはなかったのである。
瞬が全身をふるふると震わせ、唇を噛みしめて顔を伏せる。
次に瞬が伏せていた顔をあげた時、瞬の瞳は、炎の鳥をバックに従えた時の瞬の兄ですらここまではと思えるほどに――まさに烈火のごとくに燃え盛っていた。
――怒りのために。

「ぼ……僕は、氷河以外の誰とも、あんなことしたことはありませんっ! そんな誤解するなんて、ひどい!」
きっぱりと、瞬が断言する。
氷河は一瞬、瞬は何を言っているのだろうと思った。
瞬を必要としている男は、その思いゆえに焼けつくような妬心と迷いを払拭し、ついに悟りの境地に辿り着くことができたのだ。
だというのに瞬は今更なぜそんな嘘をつくのかと、氷河は、瞬に対して不審の念をすら抱いたのである。
彼にはその確信に至るに十分な根拠があったのだ。

「俺以外のだれともしたことがない――って、じゃあ、おまえは、まるっきり初心者だったのに、始めから あんなに大胆に喘いだり、あんなに腰を振ったりしたのか? 憶えてるか? おまえ、最初の夜に3回も感極まって失神したんだぞ」
氷河は彼をその確信に至らせた根拠を、臆面もなく実に堂々と披露したのだが、それは星矢と紫龍に、初手から3回もイタす氷河の神経を疑わせる以外の いかなる結果ももたらさなかった。

「だ……だって、僕は――!」
怒りのためか、氷河の赤裸々な言葉への羞恥のためか――おそらく両方のせいだったろう――瞬の瞳には涙がにじみ始めていた。
「だって僕は、氷河のことが大好きだったんだから! 好きな人に抱きしめられて、な……なんか恥ずかしくなるくらい優しいこと言われて、うっとりしたって不思議じゃないでしょう! よくわかんないけど、氷河に触られるたび、変な気持ちになって、き……気持ちよくなって、声は勝手に出たし、こ……腰を振――そ……それだって、僕の身体が勝手にそうなっちゃったんだから! 氷河のせいだよ! 他の誰のせいでもないっ!」

「…………」
瞬にそんなことを言われても、現実にそんなことがあり得るのかと、氷河はまだ半信半疑のていだった。
紫龍が、氷河の当惑を収めるためというよりは、涙ながらに身の潔白(?)を訴える瞬のために、その あり得ない状況の真実を総説する。
「おまえたちは、要するに心身の相性が良すぎたんだ」
瞬にとって氷河は、幾多の闘いを共にして、完全に信頼し、その心を疑うことなど思いもよらず、すべてを委ねてしまえる相手だったのだろう。
恐れも緊張もなく、瞬は氷河に自らを預け、そこには幸福という感慨しか存在しなかったに違いない。
だから、そういうこともあり得たのだ――。

「そ……うなのか?」
誤解が誤解だったことに歓喜しそうになる自分自身を落ち着かせるために、氷河は瞬に確認を入れた。
瞬が、頬を真っ赤に染めて俯く。
紫龍の推察は、どうやら事実と合致しているようだった。

瞬が過去にどういう経験をしていたとしても、それは自分の気持ちとは無関係だと思うことができるようになってはいたが、もしそうでないのなら、それに越したことはない。
氷河は感激し――同時に少し安堵もして――、その感動に促されるまま、瞬を抱きしめるために その腕を瞬の背にまわそうとした。
が、氷河のその手は、思いがけない激しさで瞬に振り払われてしまったのである。
どうやら瞬の頬の紅潮は恥じらいのためなどではなかったらしい。
瞬が、眉を吊り上げて氷河を睨んでいた。

「僕は氷河が好きだったから、氷河もそうなんだと信じてたから、だから、あんな乱暴みたいなことされても我慢して――ううん、嬉しかったのに、それなのに、氷河は僕を好きだからあんなだったんじゃなく、僕のこと疑って、僕のこと憎んでたから、あんなふうだったんだね!」
涙ぐむ瞬に責められて、いったい氷河にどんな弁解ができただろう。
どれほど責められても、瞬はそうする権利を当然のこととして有している――と、氷河は思った。
瞬に許してもらうためなら土下座することも厭わない。
氷河はそう考え、その考えを実行に移そうとした。
が、瞬は、そうすることすら氷河に許してはくれなかったのである。

「氷河がそんなことにこだわるのなら、僕だって訊きたい。氷河こそ、あんなこと、どこで覚えてきたのっ!」
瞬の鋭い指摘に、氷河がぎくりと身体を強張らせる。
痛いところを衝かれて答えに窮した氷河は、それでもなんとか態勢を立て直し、不自然きわまりない笑みを瞬に向けた。
「しゅ……瞬。好きなら、そんな過去のことにこだわるべきではないと、俺は思――」
「僕が氷河を好きだったのは、10分前までのことだよ。今はもう大っ嫌い!」
「瞬〜っ !! 」

平和な城戸邸のラウンジに、氷河が悲鳴にも似た雄叫びを響かせた時、そんな氷河を嘲笑うかのように除夜の鐘が鳴り響き始めた。






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