「死ね、瞬!」 その名が氷河の口から吐き出された時、この危地のただ中で、瞬は一瞬動きを止めてしまったのである。 『アンドロメダ』ではなく『瞬』という名を 彼が口にしたことが、瞬を慄然とさせた。 「 氷河は敵に――おそらくは、アスガルドの教主ドルバルに――双子座の黄金聖闘士が操っていた幻朧魔皇拳のような拳で洗脳されてしまったのだと、瞬は解していた。 当然過去の記憶はないものと思っていた。 その思い込みに根拠はなかったが、敵を味方に取り込もうとした時には、意思を変えるよりも忘れさせてしまった方が、より簡易に目的を達成できる。 だから氷河もそうなのだろうと、瞬は思い込んでいたのだ。 だが、氷河はその名を憶えていた。 毎夜、瞬に口付けるたび、瞬を抱きしめるたび、囁き続けてきたその名を。 「無論。その上で俺はアテナよりもオーディーンを選んだ」 そんなことはどうでもいい。 瞬は神の名などどうでもよかった。 「じゃあ、僕が氷河を好きだったことは――」 「なに?」 氷河はどうやらその事実を忘れていたものらしかった。 すぐに思い出せる程度に軽く。 「ああ、そう……そうだったな。俺に殺されるなら本望だろう」 そう言って酷薄な笑みを浮かべる氷河に、瞬は背筋を凍りつかせたのである。 彼自身ではなく彼を支配している力が恐ろしくて。 氷河は過去の記憶をすべて持っているのだ。 だが“氷河”の心を持っていない。 経験と それによって積み重ねられた記憶が心というものを作るのだと思っていた瞬は、その事実に愕然とした。 心を操るとは、こういうことなのかと思う。 彼は“氷河”の記憶を失ってはいない。 しかし、その記憶の持つ意味が全く違ってしまっているのだ。 「ああ、そうだ。昔の俺は、おまえのその舌を食いたがっていたな。甘い汁を含んだ果肉のようだと いつも思っていた。倒してから食ってやる」 瞬はその言葉にぞくりと身体を震わせた。 この氷河は――ミッドガルドは――本当にそれをやりかねない。 それ以上に、彼が自分と過ごした夜の記憶までを有している事実に、瞬は驚愕した。 あんな他愛のないピロートークまで憶えているというのに、それでも、今 瞬の目の前にいる男では“氷河”ではないのだ。 おそらく経験というものは、それをどう受け取るか、どう意味づけるかで、何もかもが違ってしまうものなのだろう。 愛し合っていた夜が、今の氷河には、“支配していた夜”か“愛されていた夜”に過ぎなくなってしまっているように。 瞬は、ここまで氷河の心を支配してしまっているドルバルが恐ろしく、妬ましく、そして卑怯だと思った。 氷河が氷河でないものに支配されていることに、“瞬”の心が耐えられない。 だから瞬は、氷河を倒し 自らも死ぬという考えを捨てたのである。 “瞬”の敵は“氷河”ではなく、ましてやミッドガルドでもなかった。 灰色の空の彼方にワルハラ宮殿の石造りの塔が見える。 その下に、“瞬”の敵がいるはずだった。 「逃げるのか、瞬!」 闘いを途中で放棄し、ドルバルのいる場所に向かって駆け出した瞬を、氷河ではない氷河の声が追ってくる。 瞬はその声を無視した。 風のように背後に移っていく景色の中に、龍座の聖闘士の聖衣が見える。 「紫龍! 氷河をしばらくここに足止めしておいて!」 「なにっ」 とんでもない役目を仰せつかってしまった紫龍が、瞬のその言葉の意味を理解しようと努め始めた時には既に、問題の人物が冷ややかな目をして彼の前に立っていた。 |