本来の主がいないので女房たちには“殿”と呼ばれてはいるが、正殿と北対屋は兄のために空けてあるのだという。
氷河は普段 瞬が起居している西対屋に案内された。
室内の造りや調度はもちろん、そこから見える庭も見事で、氷河は非常によい気分で勧められた場所に腰を下ろしたのである。

陽は傾きかけていたが、まだ月が昇るには早い。
星矢は運ばれてきた唐菓子に いちばんに手を伸ばし、これまでの経緯の説明はすべて瞬に任せるつもりでいるらしかった。
菓子を頬張っている星矢の横で、信じてもらえるかどうかを不安に思っている様子の瞬がためらいがちに語り出す。
異変は、昨年の中秋の名月の夜から始まったのだそうだった。

「その人は僕より年かさの男の人で……いつも品のいい鈍色の束帯を身に着けています。面差しはとても整っているけど、月のように冷たい目をしていて――最初の時には、僕を連れていこうとはしなかったんです。僕の顔だけ見て――随分長いこと見てましたけど、あの夜は何も言わずに いつのまにかいなくなっていた。次の月には、屋敷の外で吠えていた犬の声が不愉快だったらしくて、眉をひそめて消えていった。先々月は突然月に雲がかかって、連れていきたいけど こんな夜は縁起が悪いって言って――。先月は星矢が寝言で追い払ってくれました」
「寝言?」

星矢に聞いていた話とは微妙に違う。
氷河が問い返すと、瞬の横にいた星矢が菓子を喉の奥に押しやってから、悪びれた様子もなく口を挟んできた。
「俺、自分の寝言で目が覚めたんだよ。で、慌てて瞬の姿を捜したら、あの男が瞬をさらっていこうとしてたんだ」
「……」
この美しい庭に月の光、春に咲く花のような少年と月の世界から降り立った妖しくも端正なひとりの男――その夢幻のように美しい光景に寝言を割り込ませるとは、いくら何でも風情がなさすぎる。
氷河はかけらほどの遠慮もなく眉をひそめた。
そして、月の世界からやってきたのかもしれないその男も、今の自分と同じ気持ちになったのだろうと思ったのである。

「その人が来る頃になると、怪しい術でもかけられたみたいに、みんな眠りこけてしまうんです。僕以外であの人の姿を見たのは星矢が初めてで――星矢だけなんです」
氷河の不興の理由を察したのか、瞬が幼馴染みのために弁解のようなものを口にする。
星矢の寝言の風情の無さに興を()がれて その男がこの館を立ち去ったのだとしたら、確かに星矢は瞬を守り抜いたことになるだろう。
おかげでこうして今、日の光に耐え得る美形と対峙していられるのだと考えて、氷河は星矢の無粋は不問に処すことにした。
が、それはそれとして、である。

「ご迷惑をお掛けしてすみません。でも、星矢が、氷河殿は貴族らしくなく武芸に秀でてらして、それに夜更かしや夜遊びが得意だから、きっと眠りこけたりしないだろうって」
それはそれとして、本当に星矢は、彼の年上の又従兄をどういう人物として瞬に説明しているのか。
氷河は、そちらの方が気になって仕方がなかった。
が、ここで瞬に余計な弁明や訂正を呈して藪から蛇を突つき出すのも不本意である。
氷河はその件には触れずに、瞬に尋ねた。
今は、自分のことより瞬のことを知りたい。

「殿はいらない。氷河と呼べ。で、瞬、おまえは竹林で拾われてきた姫――男子なのか」
「いいえ、違うと思います。僕の母は、僕を産むとすぐに亡くなったそうですが――誰も教えてはくれないですけど、多分、僕を産んだせいで亡くなったのだと思います……」
睫毛を伏せて つらそうに語る瞬に、氷河はもちろん同情した。
だが、それ以上に、憂い顔も美しい瞬の様子に、氷河の胸は勇んだのである。
これでは月の世界の男が心を奪われても仕様がない、と思う。
要するに、瞬は、氷河の好みに完全に合致していたのだった。

「ま、今夜は大船に乗ったつもりでいろ。こんな美形、月の世界なんかに連れていかれてたまるか。もったいない」
「え……」
一瞬 不思議そうに瞳を見開いた瞬が、次の瞬間 口許をほころばせる。
憂い顔を一変させた瞬の笑顔に、氷河は少々戸惑った。
「なんだ?」
「昨日、星矢が、氷河殿――氷河ならそう言って守ってくれるからって、僕を励ましてくれたんです。星矢が言っていた通りのことをおっしゃるから」
そう言って、瞬がまた くすくすと笑い声を洩らす。

氷河は憮然とした――無論、瞬の笑い声ではなく星矢の言葉の方に、である。
それが非難悪口の類でなかったとしても、他人に己れの言動や考えを見透かされることは あまり気分のいいことではない。
「初めてお会いしたような気がしません。星矢に色々聞いていたから」
「――どう言ってたんだ、星矢は、俺のことを」
「亡くなった母君を慕うあまり、母君に似た美女を探して女性遍歴を重ねている一途な貴公子様――って」

悪い予感を覚えていた通りに――星矢は、氷河の言動を予見するだけでなく、余計なことまで喋りまくってくれていたらしい。
氷河は星矢の手から菓子を奪い取って、彼を怒鳴りつけた。
「何を言ってるんだ、おまえは!」
「でも、事実だろ」
「む……」
それは氷河にも否定はできない。
否定はできないが、その事実は瞬に知られて嬉しいことでもなかった。
しかし、ここで、これまでに逢瀬を重ねてきた姫たちなど 瞬に比べれば月の前の灯し火、太陽の前の星にすぎない――などという本音を語ることは、瞬の心証を悪くするだけだろう。
そんなふうに進退窮まった氷河を救ってくれたのは、今流行りのあの物語だった。

氷河は自分では気付いていなかったが、あの物語の主人公――氷河は彼が嫌いだった――と全く同じことをしていたのである。
そして、氷河にとっては実に幸いなことに、瞬は かの物語の主人公に好意を抱いていたらしい――のだ。
「まるで源氏の君のようだと思っていたんですけど、光源氏だって、こんなに美しいひとかどうか――」
ほうっと長い溜め息を洩らして、瞬が氷河の顔を見上げる。
氷河は瞬のその澄んだ瞳の中に世辞の色を見い出すことができなかった。
瞬は美形な上に、見る目があり、他人の美点を認めることのできる素直さもあるらしい。

氷河は大いに瞬が気に入って――そして、気になったのである。
彼は声を低くして、星矢に尋ねた。
「瞬は母に似ていない。なぜ俺の好みとわかったんだ」
星矢が、声の大きさの加減の術も知らぬげに、いつもの よく響く声で答えを返してくる。
「俺、このガキっぽい外見のせいでさ、この歳になっても、どこの屋敷の奥にでも入れてもらえるんだよ。昼日中でも、貴族の姫君の顔をいくらでも見れる。瞬は都のどの貴族の姫君より綺麗だ」

まるで理由になっていない。
氷河は、星矢の声の大きさと その言葉に顔をしかめた。
「おまえはさ、ほんとはもう そこいらの姫君が母親に似てるかどうかなんてどうでもよくなってるんだよ。おまえの頭ん中で、おまえの母上様は天女みたいな美人になっててさ、それを超える美人なんて この世にはいないんだ」
「……」
「逆に言えば、綺麗なら母親に似てることになる。でも母親以上に綺麗な存在も許せない。瞬は綺麗だけど、どう考えたって、おまえの母親には似てないだろ。瞬の“綺麗”とおまえの母親の“綺麗”は全然違う種類の“綺麗”だ。だから瞬の“綺麗”を認めやすい」

その言動の粗雑さとは裏腹に、星矢は意外に鋭い観察眼の持ち主である。
「その上、瞬は性格いいし優しいから、嫌う理由はないもんな」
理路整然とは、まさにこのこと。
氷河は、ぐうの音も出なかった。
返す言葉に窮し、星矢に反駁できないまま、ちらりと横目に瞬を見る。

氷河の視線の先で、瞬は、少し困ったような顔をして、僅かに瞼を伏せていた。
確かに瞬は氷河の記憶の中の母には全く似ていなかった。
そして、だが、どうしようもなく、氷河の好みだったのである。






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