空の低いところに月が姿を現した。
正殿ほどではないが、それでも相当の広さのある西対屋には 隔ての障子や几帳(きちょう)が運び込まれた。
障子の向こうには数人の舎人が番に立ち、几帳の向こうでは星矢が横になっている。

静かな夜だった。
星矢も、寝ずの番をすると言っていた舎人たちも、まるで月に魔法をかけられでもしたかのように眠ってしまっているらしい。
彼等がなぜそんなにも安々と眠ってしまえるのか、氷河にはわからなかったのである。
同じ対屋の内に、月の世界の男も魅入られるほど魅惑的な生き物がいるというのに。
特に月が姿を現してからずっと、氷河の胸は異様に騒がしくなってきていた。
それがどういう気持ちに()るものなのか、既に氷河にはわかっていた。
が、文のやりとりもせずに唐突に瞬を押し倒すわけにはいかないし、その上、いくら美しいといっても相手は男子なのである。
氷河は、自分の身体の内にある騒々しいものを持て余していた。

庭に面した(えん)に座り、挑むように無言で月を睨み微動だにしないでいる氷河に、氷河の内心の葛藤に気付いてもいないらしい瞬が 心配そうに声をかけてくる。
「あの……眠かったら休んでください。そちらの屏風の奥に夜具を用意させてあります」
「いや」
『どうせなら二人で』とも言えず、だが言ってしまいたいと思っている自分自身に、氷河は困惑していた。
「月が明るすぎるせいか、目が冴えて眠れない。月の世界からやってくる男というのも見てみたいしな」

決して嘘ではないが本心でもない――そんな言葉を吐き出した氷河の横に、瞬が音もなく腰をおろす。
氷河と同じように月を見上げ、氷河の顔を見ずに、瞬は小さな声で氷河に尋ねてきた。
「月の世界って、本当にあると思いますか」
「うさぎが餅を搗いているという話は嘘だと思っているが」
「僕を連れていこうとしているのは、月の世界というより死の国の人なんじゃないかと思うんです」
「死の国? 不死の国の間違いだろう」
瞬はいったい何を言い出したのかと訝り、氷河は横目でかぐや姫の顔を窺った。
冴えた月の光を受けて、昼間見た時より その横顔は白かった。

欠けては満ちる月は、再生の象徴である。
月の世界には不死の水があるとも言われていた。
そこは楽園で、楽園の住人は不死であり、また誰もが憂いを知らず幸福に暮らしている――というのが定説になっている。
竹取物語のかぐや姫も、天女から手渡された天の衣を身につけた途端に人間としてすごした記憶を忘れ、安らぎに満ちて天に昇っていったことになっていた。

「不死は永生ではないでしょう? 死なない人がいる世界は死の国だけなんじゃないでしょうか。死んでる人はもう死ねない――ですよね」
噂の男が死の国からの(つか)いなのだとしたら、なおさら瞬を渡すわけにはいかない。
そう思いながら氷河は、瞬に――瞬が死の国からの遣いを恐れている様子がないことに――不安を覚えたのである。

「おまえは……死にたいとおもっているのか」
「そんなことを考えたことはないつもりなんですが、自分が何のために生きているのかもわからない……」
冴え冴えとした光を放っている月を見上げる瞬の横顔は、彼こそが死の世界に魅入られているようだった。
月の光よりも清らかに見えるだけに、生きている気配が希薄である。
既にこの世のものではないように。

「まだガキのくせに、年寄りみたいに つまらんことを言うな。生きる理由など、これからいくらでも見付けられる」
「そうでしょうか」
そう呟く瞬は心細げで、今にも自ら月の光の中に溶け込んでしまいそうな様子をしている。
瞬をこの世界に――自分の側に――引き止めておきたいという強い思いが氷河を捉え、その思いに逆らいきれずに、氷河は瞬の肩を抱き寄せた。
「俺が手を貸してやる」

実際に瞬に触れてみると、氷河の体内で騒いでいたものは急速に静まっていった。
今はそんなことより、瞬をこの地上に引き止めておくことの方が、より重大で優先されるべき事柄である。
今になって そんなことを思い始めた氷河の肩に、瞬が遠慮がちに頬を預けてくる。
「氷河はあったかい」
やましいことを考えていた自分を恥じて、氷河はその肩を更に引き寄せた。






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