自分の手の中にあった温かいものが、ふっとどこかに消えた。
突然 寒さに似た物足りなさを覚えて、氷河は我にかえった。
瞬を抱きしめている心地良さに誘われて いつのまにかうとうとしてしまっていたらしい自分に気付いた氷河は、次に、彼を眠りに誘い込んだ温もりが 彼の手の内から失われていることを知った。

瞬が、履き物も履かずに庭に下りていた。
月のある方角を見上げ、月の光の中に立っているその姿は、この世のものとは思われないほど頼りなく、輪郭がはっきりしない。
目は開いているが、ひどく虚ろで輝きが感じられず、意識もないように思われた。
その虚ろな瞳で瞬はいったい何を見詰めているのかと、彼の視線の先を追った氷河は、ひと月前の満月の夜に星矢が見たという男の姿を その場に見い出すことになったのである。

「余の許に来い。余のものになれば、そなたは寂しさからも苦しさからも解放される。余が全てを忘れさせてやろう」
白い光のような影のような――月の光の中の瞬よりも輪郭が明確でないその男の声は、ぞっとするほど冷たいものだった――およそ感情というものが感じられない。
彼が月の世界からやってきた者なのだとしたら、確かに月の世界は黄泉の国なのかもしれない。
そう、氷河は思ったのである。
そして、それが誰でも瞬を奪われたくはない、と。

「瞬、こっちに来い!」
自らも庭に下り、氷河は瞬の名を呼んだ。
瞬の耳に、だが、氷河の声は届いていないらしい。
自分の声には星矢の寝言ほどの力もないのかと苛立ちながら、氷河は瞬の側に駆け寄った。
両肩を掴み、揺さぶり、それでも呆然としたままの瞬を力一杯抱きしめる。
頬と頬が触れ合った時、氷河は瞬の頬の死人のような冷たさに驚かされた。
幸い すぐに、氷河の肌の熱が移って、瞬の頬は温もりを取り戻してくれたが。

「あ……氷河……?」
同時に瞬は意識も取り戻したようだった。
ほっと安堵の息をついたのも束の間、氷河は、ありえないほど強い視線の力を感じて、その視線の主の姿を見やったのである。
「なに…… !? 」
男が瞬より頭2つ分ほども背が高く見えたのは、彼が僅かに宙に浮いているからだった。
実際は氷河とさほど変わらない背丈らしい。
瞬と自分とを見下ろしている男の顔に、氷河は見覚えがあった。
無論、知らない男である。
年齢も、その姿からは察することができなかった。
ひどく若い男のようにも、壮年の男のようにも見える。
瞬が言っていた通り、確かに美しい男だった。

彼は、瞬に似ていた。
氷河自身にも似ていた。
どこか星矢にも似たところがある。
だが、氷河を何よりも驚かせたのは、彼の端正な顔立ちが、氷河が幼い頃に失った母の面差しにも似ているような、そんな気がしたことだった。
その 美しく慕わしい面差しの持ち主が、だというのに、冥府の王と言われても信じてしまいそうなほど冷たい目をして、生きている人間を見下ろしている。
いったいこれ(・・)は何なのか――混乱する氷河に、その男は、やはり冷たく抑揚のない声で告げた。

「それは余のものだ」
まるでこの世の――そして冥府の――すべての人間の声を集めてできたような不思議な声。
氷河の腕の中で、瞬は再び意識を失ってしまったらしい。
しかし、瞬の身体は温かい。
その身体を抱きしめて、氷河はその者に懇願したのである。
「それは、瞬が瞬の生を生き終えてからにしてくれ」
――と。
「瞬は生きるんだ。俺と一緒に。きっと生きてくれる……!」

氷河の訴えは彼に届いていたのかどうか。
視線を合わせたまま、どれほどの時間が過ぎたのか――。
冥府の王はいつまでもいつまでも冷たい眼差しで、今はまだ生きている二人の人間を見詰めていたが、氷河の腕の中で小さく身じろいだ瞬に氷河が視線を落としたその瞬間に、彼と彼の視線は月が群雲に隠れていくように掻き消えてしまっていた。






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