月は空から姿を消していた。
夜が明ける直前の闇の中に、灯燭の明かりが二つだけ灯っている。
庭から屋内に運び横たえていた瞬の睫毛が震える様を見て、氷河は安堵の胸を撫でおろした。

「気がついたか」
「あ……」
ゆっくりと瞼を開けた瞬が、不思議なものを見るような目で、氷河の顔を見上げる。
それから御簾の間から窺える庭と空の方に視線を向け、瞬は夜具の上に横になったまま、しばらく無言でいた。
あの男が何者だったのかを考えあぐねているかのように。
やがて、小さな声で、瞬が呟く。

「あの人、僕に一緒に来いって言ってた……。悲しみも寂しさもないところに連れて行ってやるって――」
「ああ」
彼の言っていた場所がどういう世界なのか――月の世界は楽園か黄泉か――それは氷河にもわからなかった。
「おまえは奴と一緒に行きたかったのか?」
瞬の答えを恐れながら、それでも氷河は問わずにはいられなかった。
しばらく沈黙を作ったあとで、瞬がやはり小さな声で言う。
「そうだったかもしれない。でも、あの時、氷河の手と頬があったかくて、僕、もしかしたら生きてることはそんなに悪いことじゃないのかもしれないって思ったんだ」
「そうか……」

瞬を産んですぐに瞬の母親は亡くなったと言っていた。
瞬はおそらく、母に抱かれたことがないのだろう。
子供は――特に生まれたばかりの赤ん坊は、母親と肌を触れ合い、その温もりと優しさに包まれることで、確信する。
この世界は良いところで、人間は信頼に足る。生まれてきてよかった。生きることは良いことだ――と。
だが、瞬はそれを知らないのだ。
瞬の兄や星矢は、瞬を慈しみ愛してはいたのだろうが、抱きしめてやったことはないに違いない。

掛け布代わりに氷河が瞬の身体を覆っていた彼の(ほう)の下から、瞬が左の手を伸ばし、瞬時ためらってから、その指で氷河の手を捉える。
氷河がその指を握りしめると、瞬は安心したように指に力を込め、氷河の手を握り返してきた。
「月の世界はきっと冷たい。でも、氷河は温かい……」
嬉しそうにそう言って、瞬が氷河を見詰める。
その瞳は、さすがに月の世界の男を魅了するだけあって――おそらく瞬自身は自覚していないのだろうが――恐ろしく誘惑的である。
しかも、それは温かく、瞬は生きている。

その事実に気付いた途端、氷河の体内には、一度は静まったはずの あの(たか)ぶりが蘇ってきたのである。
瞬は生きていて温かい。
幸い星矢は几帳の向こうでぐっすりと寝込んでいる。
この昂ぶりを自制できたら、それは男ではないと、氷河は思った。
絡み合っている二人の手を見、そして、瞬の瞳を見詰める。
きっとこれ(・・)は、瞬をあの冥府の王から守ることになるに違いない――そう自分自身に弁解して、氷河は握りしめていた瞬の手を自分の口許に持っていった。
「生きているのはいいことだ。この世は暖かくて、人も温かくて、おまえを大切に思っている人間はたくさんいる。無論、おまえを必要としている人間もたくさんいる」
「そう……なのかな」
「そうに決まっている。星矢だっておまえを心配して俺をここまで引っ張ってきたんだし、何より、今では俺がそうだからな」
「え……」

瞬が何ごとかを言う前に、氷河は瞬の唇に自分の唇を重ねた。
そして、その身体に、自身の身体を重ねていた。
自分が何をされようとしているのかを瞬が理解しているのかいないのか、それは氷河にもわからなかったが、既にその気持ちは抑え難い。
そして、瞬は、とにかく人の温かさが、その温かさに触れていることが心地良くてならないらしく、氷河の身体の重みから逃げるどころか、逆にその手を氷河の背にまわしてきたのである。

身に着けているものをすべて剥ぎ取られても、瞬は抵抗らしい抵抗も見せなかった。
月の世界の男は、彼が連れていこうとした者の白い裸体が 他の男の手によって桜色に染められていく様を、どこかで見ているのだろうか。
あの影と光でできているような男に挑むように、また祈るように――氷河は瞬の身体を押し開き、それを我が物にした。






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