My Way






ちょうど大きな事件や事故のない時期だったせいもあって、グラード財団がユニセフに1000万ドルの寄付をしたというニュースは国内外で相当の話題になった。
口さがない人々の中には、グラード財団は誤って小切手に0を一つ多く書き込んでしまったに違いないなどと、低次元な勘繰りをする者もいたが、公にはそれは民間の一経済団体としては未曾有の善行として受け入れられ、賞賛を浴びていた。

「1000万ドルっつーと、どれくらいだ?」
テレビのニュース番組に映るグラード財団総帥とユニセフ代表の握手の図を見やりながら、星矢が実に緊張感のない口調で仲間たちに尋ねる。
10円のうまい棒エビマヨネーズ味が8円で売られていることにも狂喜する星矢には、それは全く現実感を伴わない金額だった。

「現在の為替レートで115億円前後。ま、日本人35人分の生涯賃金だな」
「人間35人分の人生かー」
「そういう例え方をするものではないわ」
テレビの映像は、30時間前の録画である。
1000万ドルをぽんと他人に与えてのけたグラード財団総帥は、彼女の家に戻っていた。

沙織の叱責を受けた星矢が、ささやかないたずらを見咎められた子供のように肩をすくめる。
「何にしても大した額だよな。さすが、金持ちはやることがすげぇー」
「私個人のお金ではないし――グラード財団は昨年は、世界各国の異常気象や自然災害からの復興 に伴う事業で儲けすぎたから……。企業イメージのアップのためには、100万ドル程度では話題にもならないと言って、役員たちに認めさせたのよ。いずれにしても、あまり褒められたことではないわね」
「なぜです。多分、数10万人規模で飢えた人々の命が救われる」
「そう思うから、下品とわかっていてもするのだけど」

いかにグラード財団がアジア随一、世界屈指の多角経営企業体であるとはいえ、1000万ドルは決して軽い金額ではない。
得意げに吹聴されたら嫌味だろうが、卑屈にも思えるほど得意がる様子のない沙織の態度に、瞬は違和感を覚えた。
沙織が、そんな瞬に小さな溜め息をついてみせる。

「持てる者が、その余分な分を人に与える行為は愛でも優しさでもないわ。本当に愛から出たことなら、自分が痛みを感じるまで――最低でも、飢えや貧困に苦しんでいる人と自分が同じレベルになるところまで、自分のものを差し出すことでしょう」
「聖アントニウスや聖フランチェスコのように?」
「そうよ。慈善は金持ちの道楽と言われても仕方がないわね。私は、自分が痛みを感じるところまで 自分の持てるものを他人に与えることはしないもの。子供が自分の欲しいものを我慢して人に与える100円の方が、どれだけ愛がこもっていることか……」
「……」
沙織の考え方は、瞬にもわからないではなかった。
しかし、現実問題として、もしそこまでしてしまう人間がいたとしたら、人々はその人間を愚か者と思うのではないだろうか。善意の人ではなく変人と捉えるのではないか――というのが、瞬の率直な見解だったのである。

「沙織さんがそこまでしてしまったら、沙織さんに救われる者たちは、沙織さんに負い目を感じて、誰も沙織さんの“愛”を受け取れなくなってしまうでしょう。それに、沙織さんはグラード財団に属する何10万人もの社員の生活に責任があるわけですから、財団を傾けるほどの慈善はできない」
「……難しいわね、こういうことは。一人対一人のことなら、私は 命だって時間だったお金だって いくらでも投げ出そうという気持ちはあるつもりよ。でも、より多くの人を救おうと思ったら、こういう手段を採るしかない」
そう言って、沙織がまた小さな吐息を洩らす。
沙織はもう、その件に触れてほしくないらしい。
それを察して、瞬は話を逸らした。

「僕たちの闘いも、一人対一人だから、敵の痛みも自分の痛みも感じていられるけど、大量破壊兵器を用いた軍と軍の戦いとなったら、人を傷付けることに痛みを覚えることすらできなくなるのかもしれないですね」
個人レベルの闘いと軍隊同士の戦いとを――比べるのも愚かしいことだが――比較すれば前者の方が より人道的とは言えるだろう。
だが、戦果――成果だけを見るなら、それは後者の方が圧倒的に大きいのだ。
戦意と善意という違いはあるにしても。

「沙織さん――アテナと、僕たち一兵卒とでは立場が違う。よりつらいのは沙織さんの方でしょう」
アテナとしての沙織が せねばならぬことも、グラード財団総帥としての沙織にできることもわかっている――と、瞬は言葉にはせず沙織に告げた。
彼女の聖闘士の慰めに、沙織が僅かに微笑む。
「確かにあなたたちの闘いは一対一の局地的なものだけど、あなたたちの命と闘いには たくさんの人たちの希望が託されているわ。それだけは忘れないで」
そう言いながら、沙織の微笑みはやはりどこか寂しげだった。

瞬は何と言ったらいいのか わからなかったのである。
沙織は本当は、自らの財産のすべてを貧しい者たちに分け与え、隠者としての行き方を選んだ聖アントニウスのようになりたいと思っているのかもしれない。
もちろん、彼女が富める者でなくなったとしても、アテナの聖闘士は彼女に従うであろうから、彼女が持てる金品のすべて投げ出しても、沙織が孤独な人間になることはないだろう。
だが、瞬は、たとえそうだとしても 貧しい生活をしている沙織というものが想像できず、彼女が本当にそんな生活に耐えられることを確信することもできなかったのである。

瞬と沙織のそんなやりとりを、二人の横で氷河が無言で聞いていた。






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