ハーデスのいる場所は知っている。
冥界の8つの獄、3つの谷、10の壕、4つの圏――。オルフェの恋人であるユリティースが その身を縛りつけられている花園を故意に避けて、瞬は、冥界の王のいるジュデッカへと向かった。
瞬が、一度はその主として、この国の王として、座したこともある場所。
明るく暖かい光のないその場所にあるものは本当に“希望”なのかと迷いながら、瞬はハーデスの前に立ったのである。

「オルフェの件で、一度限りの生の大切さを思い知ったのではなかったのか?」
冥界の王は、嘲笑うように瞬に尋ねてきた。
アテナの壺に封印されたはずのハーデスが以前と変わらず死の国に君臨していることも、彼の側に死んだはずの黒衣の女性が控えていることも、瞬は さして不思議なこととは思わなかった。
ここは死の国なのだ。
生きている人間――瞬自身――がいることに比べれば、それはさほど奇妙なことではない。
死の国に、もはや死という名の消滅は存在しないのだから。

「わかっています。でも、それでも失われたものを取り戻したいと願うのが人間というものなんです」
失われた命、失われた時間、失われた若さ、失われた夢――を取り戻したい。
人類の歴史が始まったその時から、どれほどの人間が叶わぬ夢を見続けてきたことか。
今は瞬は――瞬も――そういう人間の一人にすぎなかった。

「それで、余にすがるためにここに来たか」
「……そうです」
「アテナの聖闘士が、一度は倒したかつての敵である余に情けを乞うか。オルフェが己れの命を懸けて学んだことも無意味、未練は人を愚かにするな。……いや、それでよいのだ」
満足げに頷きながら、と同時に、一度は彼の器であった人間への憐憫を込めて、ハーデスは瞬に言った。

瞬は、ハーデスの言う通りに自分が愚かな人間であることを認めざるを得ず、彼に反論することのできない自らの唇を噛んだのである。
かつては自身の命と引き換えに その存在の消滅を願いさえした相手に、瞬は今はこうして膝を屈するしかない。
限りある命をしか持たない人間である自分の無力。
限りがあるからこそ美しいと思っていたものを取り戻そうと足掻いている自分自身に、瞬は――瞬もまた――憐憫を覚えた。

自分も死んでしまえばいいのだということはわかっていた。
そうすれば、失われた命と再び共にいられるようになる。その場所は――光のない世界になるとしても。
それは、わかりすぎるほどにわかっていた。
だが、一人の人間として、アテナの聖闘士として――アテナの許を去ってきた自分だというのに――、瞬は自ら死を選ぶこともできなかったのだ。

瞬は、この冥界でハーデスに対峙し、彼に対してどういう行動をとろうとか、何ごとかを訴えようとか、そういった具体的な考えを持っていたわけではなかった。
琴座の白銀聖闘士のように、楽の音でハーデスの心を和らげる術も、瞬は持っていない。
ただどうしても何かせずにはいられなくて、自分にできることがあるのなら、希望があるのなら、どうしても それに挑まずにはいられなくて、瞬はここまでやってきただけだった。
そんな瞬が、いざ冥界の王の前に立った時にできたことといえば、
「氷河に会いたい。会わせてください」
と、彼の情けにすがることだけだったのである。

ハーデスの下座に控えているパンドラが、一度は自らの弟と呼んでいた者に悲しげな目を向けてくる。
何か言いたげに薄く開いた唇を、しかし、そのまま引き結び、彼女は瞬の望みを叶えてくれた。






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