「おまえにオルフェの気持ちがわかるというのなら、俺にはユリティースの気持ちがわかる」
『ごめんなさい』と声にならない謝罪を告げた瞬を慰撫するように、氷河は涙ぐむ瞬に告げた。
それは確かに瞬の知っている氷河の声だったが、声音がどこか生前のものとは違っていて、ひどく静かで抑揚がなかった。
冷たくはないのだが、感情めいたものが感じられない。

戸惑いながら瞬が顔をあげると、そこには生きていた時と同じ青さを持った氷河の瞳があって、それは、瞬でない何かを――瞬を含むすべてを――愛しむような穏やかさで瞬を見詰め、見おろしていた。
「彼女は自分が生き返ることなど望んでいなかった」
「そんなはず……!」
「彼女が望んでいたのはオルフェの幸福だけで、そのためには彼女が必要だとオルフェが言うから、彼女は彼女の恋人と共に地上に帰ろうとしたんだ」

氷河はユリティースの気持ちがわかると言う。
それは、つまり、今の氷河が彼女と同じ気持ちでいるということなのだろう。
そして、氷河は、冥界で生きているオルフェに再会した彼女は、本当は生き返ることなど望んでいなかったと言い切る。
氷河は、その時の彼女と同じ気持ちでいるのだ。

「氷河は生き返ることを望んでいないの」
瞬の問いに、氷河は答えなかった。
「……俺は、おまえの幸福を願っている。おまえが幸福になるために、どうしても俺が必要だというのなら、俺は必ず生き返るだろう」
「……」

これは本当に氷河なのかと、瞬は疑ったのである。
瞬の知っている氷河は、そもそも こんな穏やかな話し方をする男ではなかった。
こんな静かな目で瞬を見詰めることもなかった。
良きにつけ悪しきにつけ、彼はもっと情熱的で激しく、そして、理性よりも直感に従って生きているようなところがある男だったのだ。

瞬の戸惑いを察したらしいパンドラが、今の氷河に似た眼差しと口調で、冥界での人間のありようについて説明してくれた。
「死んだ人間は、当然のことだが、生きている肉体に関する欲がなくなる。生存し続けたいという欲、安全な場所に身を置きたいという欲、無論、食欲も性欲も 我が身の将来を憂う気持ちも、この者からは既に失われているのだ。それが死というものだから」

では、ここにあるのは、生きることに伴う欲をすべて削ぎ落とされた氷河の純粋な心なのだ――と、瞬は理解した。
そして、その心は――彼は決して言葉にはしなかったが――生き返ることを望んではいないように、瞬には感じられた。
欲が失せたからといって、人の心から感情が失われることはあるまい。
にも関わらず、今の氷河の心は、この上なく満ち足りているように、瞬には思えた。
彼の心には、自分とは異なり、後悔というものが存在していないように見えた。
だとしたら、おそらく彼は、いつも彼の恋人を 彼にでき得る限りの力とすべての心で愛してくれていたに違いない。
愛し足りていないなどという後悔など生む余地もないほどに。

たとえそれが彼の主観だけで判断される事柄であったにしても、少なくとも彼の主観で、彼は、彼が生きている時に悔いのない生き方と愛し方をしていたのだ。
その氷河が、言う。
『おまえの幸福のためなら、俺は生き返る』と。

瞬は――“瞬”が幸福でいるためには氷河が必要だった。
だが、“瞬”が望むものは何なのかと問われると――自分の幸福と氷河の幸福のどちらを自分は望むのかと問われると、瞬が自分の中に見い出せる答えはただ一つだけだった。

死の世界に来た者は 死の世界にいることを望むものなのかもしれない。
それが死者の安らぎなのかもしれない。
肉体にまつわる欲をすべて忘れ、それでも、瞬に幸せでいてほしいと願う欲。
それは、人間によって“愛”と名付けられた、あの美しいものであるに違いなかった。
そして、それはまた、生きている氷河なら決して口にすることのない言葉でもあった。

地上で氷河が死んだときには感じなかった 氷河の死の実感が、今になって瞬の胸に押し寄せてくる。
瞬は今 初めて、心から思い知った。
氷河は死んだのだ。死んでしまったのだ――と。

自分の悔いを晴らすために、氷河の魂に無理を強いることはできない。
もし自分が、彼を愛し切れなかった後悔に、この先一生苛まれることになっても、それが氷河に不本意を強いること以上の苦しみだろうか。
今、瞬にできることは、氷河のために耐えることだけだった。

瞬の瞳から涙がひと粒、その頬に零れ落ちる。
その涙に促されて、瞬は、
「僕が願うものも 氷河の幸福だよ」
瞬は――痛みを感じ、欲も感情も備えた身体を持つ瞬は――その身体と心が感じる痛みと悲しみに耐えて、血を吐くような思いで、氷河にそう告げた。

その瞬間に、瞬の時間は止まった。






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