生きている人間の時間が止まっていた。 『僕が願うものも 氷河の幸福だよ』 瞬がその言葉を口にした瞬間に、それは止まった。 「どうです。死が愛よりも強いなどという思い上がりを改める気になりましたか? 愛に勝る力など、人は持ち得ない」 まるで真打ち登場とばかりに余裕綽々の態度でジュデッカに現れたアテナの姿を見やり、ハーデスは、その端正な貌を僅かに歪めた。 彼の信奉する力が アテナの信奉するものほどには強くないという事実を、目の前で証明させられてしまったのである。 彼の機嫌が良かろうはずがない。 沙織は、冥界の王にそれ以上 追い討ちをかけるようなことはせず、時が止まっている二人の人間の上にやわらかな視線を投げた。 「では、氷河と瞬は私たちの世界に連れて帰ります。あなたを納得させて無謀を繰り返させないためとはいえ、こんな試みの実験体にさせられたなんて、この二人には知らせられないもの。二人にはこのことを忘れさせます」 それは神々のささやかな実験に過ぎなかった。 白鳥座の聖闘士の死は神々の企みにすぎず、彼を追ってアンドロメダ座の聖闘士が冥界に向かうだろうことも、最初から神々の予定のうちにあったことだった。 沙織は この実験を積極的にハーデスに提案したわけではなかったのだが、誰か人間がハーデスにそれを示して見せなければならないことだけはわかっていたので、彼女の聖闘士たちにその役目を担わせたのである。 冥界の王は、アテナの標榜する“愛”という美しいものを人間は持っていないと、それゆえに人の世は汚れていると、悪意からではなく信じていた。 たとえ人間が“愛”などという力を持っていたにしても、それは刹那的なものにすぎず、死という永遠絶対の力に勝るものではない。 汚れきった人の世を浄化することは 神に課せられた責務ですらあり、その聖なる義務を果たすことは、ただ死という絶対の力によってのみ可能だと、彼は信じていたのである。 そして、彼はその考えを実行に移すことを決して諦めようとはしなかった。 二度と彼女の聖闘士に命を懸けた闘いを強いたくなかった沙織は、だから、ハーデスにこの試みを提案したのである。 死よりも強い力を 人は持っている、と。 それを証明する機会を人間に与えてくれ、と。 そして、彼女の人間に対する信頼は、彼女の聖闘士たちによって見事に証明されたのだ。 |