「だが、そなたの望み、簡単には叶うまいぞ」 死の国の王の前で畏れ入ることもせず、少しも臆する様子を見せない氷河の鼻をへし折ってやりたいという心を 抑えられない。 パンドラは、この生意気な男をどうやっていたぶってやろうかと考えながら、殊更 居丈高な口調で氷河に告げた。 そんな彼女の思惑も、沈黙を守っている冥王の真意も、氷河は無論探る気はない。 彼は、彼の唯一の目的に向かって突き進むことしか考えていなかった。 「冥界の王に死んだ人間を生き返らせてもらうには、何か芸を見せなければならないそうだな。その芸がハーデスの気に入れば、死んだ人間の命を返してもらえると聞いた」 それは間違った認識である。 が、パンドラには、彼の誤認を正す時間は与えられなかった。 氷河は、彼が思い描いていた瞬奪還のための筋書きを 予定通り かつ迅速に進行させることしか考えていなかったのだ。 「白銀聖闘士のオルフェは自分の女を取り戻すために、琴を弾いてハーデスの心を和らげたという。――が、俺はオルフェのように琴を弾くことはできない」 「であろうの」 白鳥座の聖闘士が今 対峙しているのは、人間にとって絶対の力である“死”を司る神である。 その神の前で全く恐れを為していない――むしろ高飛車でさえある氷河の様子に、パンドラは嫌な予感を覚えた。 失われた命を取り戻すことに必死なせいで礼儀を忘れているのだろうと、無理に思い込もうともしたのだが、残念ながらパンドラの嫌な予感は見事に的中した。 氷河は、冥界の王の前で、何の断りも前置きもなく、冥界の王の心を和らげる試みを勝手に始めてしまったのである。 つまり、すなわち、要するに、彼の唯一の芸であるところの華麗なる白鳥の舞を。 右の腕をばっさばさ、左の腕をばっさばさ――それは、振付師の意図を全知全能の神に問いたいほどに 訳のわからない踊りだった。 幻聴であることは間違いないのだが、どこからともなく『くえぇぇぇぇ〜!』と甲高く響く白鳥の歌(?)までが聞こえてくる。 奇天烈を極め尽くした氷河の踊りに、パンドラが泡を吹き 取り乱したのも無理からぬことだったろう。 なにしろ彼女は神でもなければ氷河でもない、ごく一般的な感性だけを持った一人の人間にすぎないのだ。 「ハハハハハハハハハーデス様の御前で、なななななななな何というふざけた踊りを!」 パンドラが慌てて氷河のダンスを止めようとしたところに、とどめのダイヤモンドダストが炸裂する。 それはパンドラの頬をかすめて、ジュデッカの壁の一部をピキーンと凍りつかせた。 不幸を極めたのは、たまたまその場に居合わせてしまった天猛星ワイバーンのラダマンティスだった。 風流な耳を持たないことで勇名(?)を馳せたラダマンティスだったが、非常に残念なことに、冥界では盲人にも視力が戻る。 つまり、誰にでも氷河のダンスは見えてしまうのだ。 「こ……これはいったい何だ !? 」 パンダが阿波踊りを踊っても、彼の顔がここまで引きつることはなかったろう。 ハーデスの心を和らげるために氷河が踊り狂うほどに、彼の顔は異次元空間に放り出された人間のそれのように歪み、その歪みは彼を重度の呼吸困難に陥れた。 何が起こっているのか、自分が何を見せられているのかが、まるでわからない。 見なければいいのだと思いはするのだが、得体の知れない恐怖に取りつかれた彼には、己れの視線を氷河の上から逸らすこともできなかった。 氷河の恐るべき技をマトモに食らった彼は、呼吸困難からくる不整脈のために、今 冥界で二度死のうとしていた。 「ラダマンティス! こここここの 瀕死のラダマンティスに、パンドラが無体な命令を発する。 それはラダマンティスにしてみればハーデスより怖いパンドラの至上命令だったのが、いかんせん彼の全身は 氷河の恐ろしいダンスのせいで完全に凍りついてしまっていた。 情けない部下の姿に舌打ちをし、パンドラが自ら、踊り狂うアテナの聖闘士の前に仁王立ちに立ちはだかる。 「ええい、下がれ、下郎! これ以上 ハーデス様のお目を汚すようなこと、このパンドラが許さぬ!」 彼女が手にしていた槍を氷河に向け、その先から怪しげな光線を発すると、それは一心不乱に踊り狂っていた氷河の脳天を直撃した。 「うわーっ !! 」 さしもの氷河が、その衝撃に耐え切れず、その場に倒れ伏す。 ジュデッカの床にうつ伏せに倒れた氷河が微動だにしない様を かっきり2分間見守ってから、彼女は恐る恐る氷河の側に歩み寄っていった。 「し……死んだのか?」 まるで殺虫剤攻撃を仕掛けたあとのゴ○ブリの生死を確かめる主婦のように、パンドラは槍の先で氷河の背中をつんつんとつついた。 「どうでしょう」 氷河の必殺奥義が途切れたことで身体の自由を取り戻したラダマンティスが、殺虫剤攻撃を仕掛けたあとのゴキ○リの生死を確かめる女子大生のように不安な目をして答える。 彼等は、だが、すぐに、たまたま手許にあった殺虫剤ごときでゴキブ○の命を奪うことなどできるはずがないという事実を、その身で思い知ることになったのである。 びくびくしている二人の前で、それまで身じろぎ一つしていなかった氷河は 突然むくりと起きあがった。 そして、恐怖と驚愕のあまり声を失い 立ち尽くしているパンドラとラダマンティスの前で、満身創痍の身を奮い起こし、再び華麗なる舞を舞い始めたのである。 「瞬を生き返らせてもらえるまで、俺はいつまででも踊り続ける!」 パンドラの顔は引きつりまくり、ラダマンティスの身体は再び硬直した。 「ラ……ラダマンティス! こやつを始末しろ!」 「はっ」 かろうじて返事だけはしたが、ラダマンティスにできたことは それだけ。 決死の形相で踊り狂っている氷河の前から、硬直して動けないはずのラダマンティスの足は、勝手にそろそろと後ずさりを始めてしまったのである。 こんな得体の知れないものに攻撃を加え、それでどんな結果がもたらされるか、彼には想像もできなかった。 「ラダマンティスーっっ !! 」 パンドラが幾度目かの怒声をジュデッカに響かせる。 だが、パンドラも怖いが氷河も怖い。 「パンドラ様、私はこんなものの相手はしたくないですー !! 」 天猛星ワイバーンのラダマンティスは掠れた声で悲鳴をあげて、パンドラに情けを乞うことしかできなかったのである。 パンドラの槍攻撃では致命傷を負わせることはできず、冥界三巨頭の一人も役に立たない。 そして、この国の王は玉座に座したまま、沈黙を守っている。 もはやパンドラにできることは、ただ一つだけだった。 我が身を守るために――というよりは、己れの精神を守るために――彼女は、決死の形相で踊り続けている氷河に向かい、 「わかった。アンドロメダは生き返らせてやる。その奇天烈な踊りをやめよ!」 と、懇願にも似た悲鳴を叩きつけたのである。 |